「大いなる遺産 美の伝統展」

志野茶碗 加藤陶九郎作

さて先日の日記でも書きましたが、
港区・芝で行われていた「大いなる遺産 美の伝統展」が
ヒジョーに素敵な作品ばかりで素晴らしかった。
展示も適当に間隔が空いてゆったり観られるのも嬉しい。

 「聞いたこたぁあるけど……」てなぐらいの認識だった
日本画壇の大御所作品がてんこ盛りなんですが、うーーん……やっぱそれだけの
凄い絵を遺してるから大御所なんですね。「カッコいいなあ! すっごいなあ!」と
思わず口あんぐりしちゃうような絵が多かった。
「一目惚れ」しちゃうタイプの絵を主催者側がうまくセレクトしてる、
ってことも大きいと思う。


 私がまずガーンときたのが「熊谷守一」ですね、
名前しか知らなかったけど、こんなポップな絵を描く人だったんだ! ビックリ。
「私には世界がこう見える!」というまっすぐで
強い芸術的情熱にノックアウトされました。林武とか川端龍子とか
小倉遊亀とか超有名どころの絵もまた素晴らしく。私はこの辺の作家って、
すっごい悪い言葉ですが「文化勲章コースね、現代の骨董ね」ぐらいの
失礼なイメージだった。現代と遊離したつまらない教科書的存在、みたいに思っていた。
何も知りもしないくせに、ああ恥ずかしい。
 特に林武の「赤富士」という作品が物凄い迫力で……ボーっとしてしまいました。
額縁の中から見たこともない世界がグワーッと広がっていく感動って、
絵画鑑賞の一つの醍醐味ですが、まさにそれですね。
「自然」に感動したひとりの人間が、キャンバスの中に大自然を閉じ込めて、
「非自然」のものが「自然」なものになってる不思議。すごいなあ。


この展覧会、日本の国宝、古陶器、日本画・洋画、近代工芸から成ってますが、
素人目から見ても「やきもの」は見ごたえがあったんじゃないだろうか。
富本憲吉の三作品はいずれも優美で美しく、観る者の心をパッと掴むのだけれど、
私は浜田庄司と加藤陶九郎という二人の陶芸家の作品を観てあることを強く感じた。


 「やきもの」って、神様しかできないデザインに挑戦するものなんですね。
何言ってるか分からないでしょう、すいません。例えるなら、こうだ。
 私はシマウマとかキリン、ヒョウや虎を見るたび思うんだけど、
どう逆立ちしたってあの柄のパターンなんておおよそ人間が思いつくもんじゃないなあ、
と感じ入ってしまう。画一パターンのようで、そうじゃない。
かつて手塚治虫さんが語ってて印象的だったんだけど、
「どんなに新生物を考え出そうとしても、既存の何かに似てしまうのが悔しい」という
ニュアンスのことを仰ってた。確かにそうだと思う。
私達の想像って、どこかで有り物をベースにしている。


 それが、先の二人のやきものに走る文様をみて私は、
「神様のデザインだなあ」と思ったのだ。人間がいくら知恵を絞っても出てこない
デザインだと思った。火や土と闘いながら、陶工達が挑戦しているのは、
こういう領域のことなのか。彼らは出来上がりの形やパターンを、
厳密に計算して釉薬をかけているわけじゃないんだと思う。
かといって「あてずっぽう」や「一か八か」でもないはずだ。
いろんな努力や修練があったことは想像に易いが、二人の作品には
まったく「自然」な美が、存在していた。
「やきもの」に対する一つの見解と激しい興味を与えてくれた、素敵な展覧会だった。


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