6月歌舞伎座夜の部
25日、久々に歌舞伎座へ。『名月八幡祭』が観たかったのです。かなり長いですが、観劇メモを。
1:『蘭平物狂』三代目左近 初舞台
豪華な配役が楽しい一幕。
尾上松緑さん、何度か立派な大凧絵を見るような思いに。しかしこの芝居、何度見ても「ああ…刀を見ると僕…ふはははは!(別人格)」という展開にちょっと笑ってしまう。私が殿さまだったら多分何度も遊んでると思う。
さて息子さんの三代目左近、可愛らしくも立派で、なんとも行儀の良い芝居。精神力強いなと思いました。会場も沸いてたなー。お友達なのか、客席にお子さんがちらほら。こちらもおとなしく左近くんに見入ってたのが印象的。
そして尾上菊五郎さんの在原行平……うーん…いいなあ。こういう役は完全にこのひとのものだ(『二十四孝』の勝頼とかね)。菊之助さんの水無瀬も格があって「ごちそう感」たっぷり、旬の美貌。
そしてこの芝居の眼目である立回り、あれって坂東八重之助さんがつけたものを踏襲しているのでしょうか。それともちょこちょこ変わっているのかな。会場は大盛り上がり。「とんぼ」もフィギュアスケートと一緒で後半になればなるほど大変だと思う。あの長い時間を集中力切らさずやり終える…「からみ連中」にあらためて拍手。
あ、芝居のハナに立師でもある尾上松太郎さんが登場。松緑家4代を見てきた人だ。どんな思いだろうなあ。
そうそう、蘭平の衣装で立回りのぶっ返る前、紅白の市松模様になってるのって、金の縁取りがしてあるんだね。あれが赤のきわをぼうっと霞んでる感じに見せて、さながら蘭平の血が滲んでいるように見える。毎度あの衣裳なのか分からないけど、見事な視覚効果だと思った。
2:『素襖落』
うーん。
そりゃ、そこそこ楽しいのだけれど。
松本幸四郎を「こう使う」って…どうなんだろう。贅沢感よりも、勿体ない感のほうが強い。坂東彌十郎さんまでいるのにね。ただ企画力の貧困さを感じてしまう。中番、一人で踊って「もたせられる」ひとがいればな。それが出来る人材が今の歌舞伎界にいないのだということを再確認する一幕だった。
3:『名月八幡祭』
序幕二軒茶屋松本の場から。
主役の美代吉役に中村芝雀。上手から現れてくる感じ、「ああ、おとうさん…」とハッとする。私は中村雀右衛門のファンだった。立ち止まったとき、ちょっと足幅がひらいて、さほど内輪じゃないのに「女」ただようあの感じ。今思い出すと京屋がそこにいたように思える。嬉しい。
女将役の中村京妙さん(雀右衛門弟子)の女将と会話するところ、雀右衛門ゆずりの「音と節」が交じりあって、なんともいえない気持ちになった。京屋が残した芸の花の香りが舞台に漂って、しばしこう…いい気持ち。
しかし悲しいかな、舞台全体としてはどうにもこうにも遊郭色里の雰囲気が希薄で、つらい。
『籠釣瓶』でいえば栄之丞的キャラクターの三次に中村錦之助。
本当に萬屋のいいとこを集めた顔だなあ…としみじみ。そしてこの三次という役は「18歳ぐらいなのかも?」と感じた。美代吉の簪を奪い取るように手にする無邪気で傍若無人な感じににじむ若さ。しかしもっと己が「色悪気取り」に確信がほしい。「俺から離れられねえだろ?」という根拠のない若さゆえの自信が。
うーん…芝雀さん、良かったんだけど、もっとこう…「肉体感」がほしい。お父さんの強みだった生々しさ。三次になんでそんな「シナってしまうのか」という説得力を出すにはそこが必要だと思う。それはハッキリ書くと「体に惚れている」という生臭み。
美代吉という芸者は、頭の中のカウントが「4」ぐらいまでしかない。普通のひとが10も20も数えられるところ、4ぐらいしか出来なくて、3つぐらいまで数えたとこで万事を決めてしまう。浅慮の女。その場が良ければいい女。4以上数えさせようとするひとには、訳分からなくなって逆上してしまう。でも10分もして目の前を蚊や蝶でも飛ぼうものなら、起こってたことなど流れていっちゃう、そんな女。
だから三次(その名のとおり人生の大事なことは3つぐらいしかない。楽と快と肉欲、こういう価値観で見目良く生まれると周囲は大変)と波長が合う。
そういう「ある種の芸者」って存在が、観客にとってもリアリティをもって感じられる時代ならば、この芝居の感想もまた違うんだろうけど、やっぱり現代には少し難しいなあ、と思ったり。
これ、黙阿弥の『八幡祭小望月賑』を池田大伍という人が大正時代に「現代的」にリライトした作品なんですね。それがかえって人物像を遠く感じさせてしまうのかも。私は黙阿弥の観たことないんではっきりとは分かりませんが。
そして縮屋新助に播磨屋、中村吉右衛門。
「そんなスタニスラフスキー的に造らなくとも…」とも思ったり。『籠釣瓶』だったらそれでいいんだろうけど、この戯曲の不完全さではどうにも浮いてしまう。『お祭佐七』みたいにやるしかないんじゃないか。縁切りの場面の音楽の入れ方も安いなあ…安っぽかった。そうそう思い出してきたけど、うたた寝した美代吉に羽織をかけるところ、下座が下手過ぎる。もうちょっとマシなのいなかったのか!? そんなレベルしかいないもんだろうか…。
最後の殺しの場、グダグダとあれこれ多すぎてスッキリせず、せっかくのドラマティックな要素が埋没している。『かさね』や『夏祭』みたいな素敵な「夜の殺し」を知っている歌舞伎人がなんであんな内容でOKしちゃうのかなあ…。
田舎侍の刀のくだりやら祭りの衆やら全部要らない。首抜き姿で帰ってくる美代吉と新吉ふたりだけでじっくり諍いからの殺しに雨で見せてほしかった。最後に月がのぼるなんてのも失笑。
ほかに中村歌女之丞さんが好演。
帰宅して渡辺保さんの「歌舞伎手帖」、三世時蔵の芸談が印象的。「(美代吉は)毒婦に見えてはいけません。深川は見栄の強い土地」「苦労しながらその日その日を面白おかしくおくっていくのが(美代吉たち深川芸者の)身上」根は悪い人ではない、という一文が印象的。あまりポンポン言ってはいけないと。
それでもって『名月八幡祭』のベースである『縮屋新助(八幡祭小望月賑)』も確認。黙阿弥作。こっちのほうが筋は断然面白そうなんだけど私は観たことなし。美代吉は歌右衛門の当たり役だったそうな。モデルとなった二人の名は「芸者巳之吉・甚之助」なのね。文政三年というから194年前か。
この美代吉、坂東玉三郎で観たかったなあ。でもこんな肚のない女は、玉三郎さん嫌いなんだろう。筋書によると平成に入ってからやってない。「悪気は無い」といえどあまりに不実で、しかし悪の華というほどの魅力はない。ある種の芸者の生き様をよく描いているとは思うけれどもね。しかし黙阿弥バージョンにも玉さんは興味ないんだろうか。
オチもありませんが、観劇メモはこのへんで。