7月大歌舞伎『高野聖』

31日まで

 これは、観なきゃ! 
坂東玉三郎泉鏡花の『高野聖』を初演」 このニュースを聞いて、久しぶりにコーフンした。なんだか凄いことのはじまりに立ち会えるような、そんな期待。大学時代に友達が貸してくれた、玉三郎の「日本橋」のビデオを観たときのコーフンは忘れられない(もちろん玉三郎は芸者お孝)。以来、鏡花作品における大和屋の芝居に魅了され続けてきた。そうだ、玉三郎は1983年の須永朝彦との対談(「玉三郎・舞台の夢」に所蔵)で「高野聖は舞台になりにくいもの」と語っていたような。それを、あえての上演。いったいどんな演出になるのか――ハタチの頃のように、ワクワクして開幕を待ちましたとも。


 僧侶たちを移したスクリーンを使ったオープニング、読経の挿入。人の体のような、そう、筋骨粒々といった感じの山肌を表現したセットに埋め尽くされた舞台。この幕開きは、非常に良かった。異質なるものに観る者が取り込まれていくような導入。自然という、清らかにも魔にもなりうる不可思議なものに、魅入られてしまうような風情。私は、お国が違うがテネシー・ウィリアムスの『去年の夏突然に』の、あの不思議な館を思い出した。感想をザッとメモ列記。
 玉三郎、もう何万回も言われているだろうが、やっぱり凄い。瞬時にしてこの世とあの世を飛び越える面白さ。人のような、人でないような。精霊なのか、幻なのか。そこを表現できるだけで、泉鏡花のヒロインとしては代われる人がいないと思う。
 しかし。これはやっぱり「高野聖」の話だと思う。この僧が表現できなくては話として成立しない。市川海老蔵、役者としての時分の花まこと匂うようで素晴らしいのだけれど、やはり「超絶した感じ」は漂わなかった。玉三郎演じる「女」が高野聖を「尊んだ」理由、というのが判然としない。そしてこの劇化の最大の弱点は、後半の長いひとり語り。「女」に使える老人が事の次第を説明するくだりは、なんとかもっと演劇的に消化できなかったのだろうか。と、好き勝手書いてますね……すいません。でもあの長ゼリフを飽きさせることなく、聞かせきった中村歌六の地芸は見事と思う。
 そうそう、いきなり下世話になるが……なんとこの舞台、海老蔵玉三郎の水浴びシーンがあるのですよ。実際にもろ肌お出しになる。なんとまあ……ああ、いかがなものか。ここで笑いが起こる。そうすると、話の軸がブレてしまう。いっそのこと、真っ暗でやったらどうかと思った。ノー照明、水音を入れて、セリフだけで聞かせる。玉三郎の腕なら、それで充分表現できると思うのだけれど。
 <19日夜の部>


○付記
『夜叉ヶ池』、市川段治郎(萩原晃役)のセリフのうまさに溜息が出る。「役者は一に声」ということの見事な証明。中島香里先生に「彼が証明なの!」と大声で喧伝していただきたい。市川薪車、嫌な男を本当に嫌ーな男に演じて見事だった。
そして、今回のプログラムには泉鏡花の姪である泉名月さんが寄稿されていたのだが、11日に腎不全でお亡くなりになられた。玉三郎の舞台姿は観られたのだろうか。合掌。


こちらもよろしく→「私の渡世・食・日記」http://d.hatena.ne.jp/hakuo0416/
○お知らせ
ブログランキングに登録。 どうか1日1クリック↓を。
http://blog.with2.net/link.php?198815
ご意見などはこちら→hakuoatsushi@yahoo.co.jp