錦之助の鬼藤太の良さ! 〜5月演舞場より

振り返えって見上げる演舞場

 いやー、久しぶりに一階で歌舞伎を観ました。
 19日、新橋演舞場にて。こんなの大学以来だなあ。席はちょうど義太夫さんの前ぐらいだったんですね。舞台の上手(かみて・向かって右側のこと)から3列目ぐらい。
 ここ、座ったことなかったけど、いーもんですね。ご贔屓、竹本葵太夫の腹から出される「節」にかぶりつき。浄瑠璃を体に浴びるようで、オツなもんでした。

 
 はい、今日は観劇メモ。一番心に残った『金閣寺』のことを。



○『金閣寺


 外題は『祇園祭礼信仰記』。国崩し、といわれるワルモノの松永大膳に播磨屋中村吉右衛門。今、日本で最もカッコいい男のひとりだと思う。今回の眼福のひとつは、やはりこの人の、「顔」だ。
 まるで、大凧に描かれた役者の絵のよう。大きい。顔が大きいのじゃない。芸が大きいのだ。吉右衛門が見得を切るたび、僕はヒューッと江戸時代に吸い込まれるような気がする。


 最初のほう、「こりゃ腰元」とフッと上手(かみて)を見やるとき。そこに漂う、大悪党らしい妖気のようなものにゾッとした。見得でもなんでもないところに漂うのが、役者の「格」だと思う。まさにこれ「旧派」の味。


 雪姫、中村芝雀。うーーーーん、いいっ! 役柄が合ってるのもあるでしょうが、いかにも歌舞伎の女形らしい雪姫だった。
「?」と思われるでしょうが、なんか自己流に走りすぎてるというか、現代的すぎるというか……古風な味わいのある歌舞伎女形、ってのは目下少ないもんです。
 時代とともに変わっていく部分もあるけれど、歌舞伎は全部新しくなったらつまらないのだ。絶対に変えてはならない部分があるのだ。
 芸の修練、というのは、古きに完成度高く確立されたスタイルと、その実践における方法論を体得すること、これに他ならないと思っている。ここをハンパなままで現代劇などに手を出すと「歌舞伎役者としては」ロクなことにならない。と思っている。
 このへん、いくらでも書けますが省略。
 ジッと歌舞伎に専念してきた芝雀の真面目な、手堅い芝居に唸る。それに……なんだか自信というか、大きさもついてきたというかなんというか。うーん、偉そうに書いてますが……なんだか嬉しい。
 お父さん(中村雀右衛門)のテープを何べんも聴いてるんだろうなあ、ということが在り在りと感じられる。血脈の芸、という言葉が浮かぶ。京屋って、セリフがちょっと「ダミる」んですね。そこまでよく似ていること。
 ただ、人形振りはまだ荷が重過ぎた感。お父さんのは勿論見てないんですが、結構なものだったんでしょうか。人形振りになってから前髪にさらに姫櫛をつけるのは、この方の目には損だと思う。


中村芝雀


 そして市川染五郎。役は此下東吉、のちに真柴久吉。実にいい。品が良くて、やり過ぎず、スッキリとして。碁盤の見得、腰がスッと据わっていて、体にきちんと軸があってなんとも結構。上手への引っ込みに、なぜか仁左衛門に面差しがフトかぶった。このひとは顔が小さいのにカツラや衣装に負けない。バランスが悪くならない。それはカツラの形や着付を工夫しているのもあるだろうけれど、芸がいいからだろう。


 そして、鬼藤太に中村錦之助。ひとつ発見だった。この手の役って、単なる小悪党だと思っていたのですね。しかし、錦之助の鬼藤太はどうだろう。典雅な可愛らしさ、みたいなものが漂っている! そういうニュアンスがあることで、この人はこの人で、一心に主(しゅう)である大膳を慕い、仕えている少年なのだな、ということが伝わってきた。鬼藤太の「前髪」に気づかされた。
 単なるイヤなヤツだと思っていたら。悪の主あればこその行動、歳若さゆえの愚直さ、みたいなものが感じられる鬼藤太だった。

 



○追記

 そうそう、こんなものが入り口に置いてあるのですよ。





 すごいなあ。
 発見して何分か観察してしまったけど、さすがに使っている人はいなかったな。しかしこのところ、街中のマスク率の高さは凄いですね。私は、あきらかに健康そうな人がマスクをしてるのを見かけるにつれ、
「この人たち、きちんと貯金とか節約とかしてるんだろうなあ」
 と思ってしまう。




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