亀梨和也に思う男子ボジョレー化現象(11月28日改稿)

清水アキラを怒ったのも懐かしい

こんにちは、品川庄司の品川が肉体改造してることを知って
それじゃますます庄司の存在理由がなくなるじゃないかと
要らぬ心配をしてる白央篤司です。
さて今日はちょっとオトコの子アイドルについての雑感。
自分でもなんか小言めいてヤなのだけれど、吐き出す、という気持ちで書きました。
いつものくっだらない文章が好きな人は読まないでね。


■■本題■■


男の子が完全に「キレイドコロ」になったんだなあ―――――――。
今日の「笑っていいとも!」を見て、そんなことを感じた。
『サプリ』というドラマの宣伝で、伊藤美咲亀梨和也の二人がゲスト出演していたのだけれど、
なんていうか……私には亀梨和也の扱われ方が完全に「キレイドコロ」としてのそれに見えたのだ。
伊藤美咲が紹介されて、「わあ、キレイですねえ」という感慨が場内に生まれ、
亀梨が紹介されると、「わあ、もっとキレイですねえ」という不思議な雰囲気。
うーんうまく表現できないなあ、なんつーか、キャラがかぶってるんだよね伊藤美咲と。
オーバーに言えばこの番組で亀梨は、伊藤美咲よりも丁寧に、触っちゃいけないものかのように扱われていたのだ。
カッコいいアイドル、というよりもカワイイ女の子、を見るような、
そんな目線でスタジオ内が間違いなく動いていたんだ。
ああ、くそッ! うまく表現できないなあ。


●かわいきゃいいのよッ!
男性アイドル、ってものが「かっこいい」=守ってくれる王子様、
どっか不良っぽいヒーロー、よき兄や父を連想させる大人、といった「庇護してくれる存在」ってなイメージが
もう完全になくなったんだなあ、と思う。だーれもそんなもん芸能人に求めてないのね。
かわいきゃいいんだよね、キレイならいいんだよね、男も。世の中の「女目線」っつーものが、
ミニチュアダックスやらチワワを求めるような、「ペット」「愛玩具」を欲するような気持ちに完全に変質。
かつて「男は何もしなくていい、可愛ければいい」と喝破したフランスの大女優、
ジャンヌ・モロー的発想が一般化してる時代。……でもそれが日本の女が成熟した証拠、とは必ずしも思えない。
女のそういう欲求に、実直に答えようとする男子もすんごい勢いで増えてるなあ、とシミジミ思う。
今まで「オッサン」が専有してた女性を愛でる「愉悦」を女達も当たり前として求めてる。
「そっか、頑張らなくていいんだ! 髪の毛やお肌や洋服キレイにして、甘えたっていいんだ!」という
発想の若い子、すんごく多いよ、最近マジで。だから……どうなんだって言われるとちょっと言葉に困る。
ああ、何が言いたいんだ俺は!?


●男性アイドル=ボジョレーヌーボー
 オトコがキレイであることの意味合い、価値というものがドンドン恒常化して拡大していくからこそ
アキバ系」という人々も増えていってるんだろうなあ。
「どうやってキレイになればいいの」「そんなこと俺できないよ」という男の子は自然、
マニアックな方向に激走してしまうもんだろう。でもなあ、江戸川乱歩先生や魔夜峰央先生も仰ってますが、
少年の美しさほど儚いものはないぞ。そこ分かっててみんな楽しんでるのって、なんか不気味なんだよね。
売り手側の少年や若者からしたら、
「今キレイだからそれを武器にして稼ぐ。25ぐらいになったら別の道考えるよ。それでよくない?」ってな考え方。
買い手側からしたら
「今のキレイを存分に楽しむの。老けたらまたカワイイ子出てくるわよ。それでよくない?」
別にその人の勝手ですが、結構これがメインストリーム的なノリになっちゃうのって「低い」社会だと思うけどなあ。
 昔、とある外国人の若いピアニストが金髪碧眼、容姿端麗で、日本のクラシックファンである女子に異様な
人気を誇ったことがあった。コンサートはソールド・アウト、熱狂的な見送りを受けて
「また必ず来日します」といって帰ったが、何年かした後再来日した彼をまた迎えたファンは
ほとんどいなかった、ってなエピソードがあった。彼の容姿のみを愛して、音楽はいらなかったわけですね。
「僕の音楽を愛してくれたわけではなかったのですね」という彼のコメントを読んだときは、結構辛かった。
 今まで芸能界は幾多の「オンナ」を「おもちゃ」にしてきたけれど、
物凄い勢いで「オトコ」も同様に「かわいきゃいいのよ」とい価値観にノセようとしている。
「それの何が悪いの」といわれたら何も悪くないのだが、
手放しで誰も何も言わないのは、やっぱり「はしたない」ことなんだ。
この価値観を忘れたら絶対にいけないと思う。
今の「キレイな男の子」を喜んでいる芸能界と一般人という関係は、
ただヤミクモに初物を喜ぶ「ボジョレーヌーボー狂騒」に似たイヤーな感じを思わせるんだよなあ。
「いいじゃーんハツモノよハツモノ! お祭りなんだから」
 嫌な意味で、全体的に毎日が「お祭り狂騒」のような気がする。うーん、はしたない。
それから小池徹平、この子もひとつのトピックですね。
写真集のコンセプトや握手会の模様を芸能ニュースなどで見聞するにつけ
「完全に女子アイドルのそれだなあ」と思ってしまう。そして彼のあのはにかんだようなスマイル、そして
上目遣いのそれは私に80年代アイドルの面影を思い出させる。「かわいきゃいいのだ」という
愛玩具としてのカテゴリーにみずから飛び込んでいくような売り方売られ方、懐かしくも新鮮だ。
男が完全に女子アイドルと同化した記念すべき年なのかもしれない、2006年は。


 たしかに「時分の花」という美しさ、輝きは男女問わず素晴らしいものだ。それだけで娯楽足りえる。
しかし、それを「まことの花」に変えようとしない芸能人というのは、やはり不健全でつまらないものに思える。
そして使い捨てのように男女問わず若い輝きだけを大量生産して使い捨てていく事務所側というのは
もはや芸能プロダクションではなく、節操のない「女衒」なんじゃないだろうか!? 
 と、ここで唐突なんですが、最近私はロクスッポ歌も歌えない歌手に対して「それじゃ歌屋ね」といって
物議をかもした「淡谷のり子」のことをミョーに懐かしく思う。
当時から「そんな上から……」的に思われて「今の感覚とズレてんだよ、骨董品が」みたいな
陰口も言われた人だったが、絶対に自分に意見を曲げないバアさんだった。意思の人で、「媚びない」強さがあった。
ああいう「ご意見番」がいない社会ってのは、(誰も困らないが)つまらないものじゃあないだろうか。
前時代的な……といって笑う人もいるだろうが、
私はちょっとマジに淡谷センセイの復活を願ってしまう。
 エライヤやつら、吼えろよ!
 あー、似合わないこと珍しくマジっぽく書いてしまいましたが、私の文章、今日いつにもまして下手ね。
でも、これが今の精一杯だ。以上!


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