さようなら吉田玉男さん・そして歌舞伎への私なりの「暴言」

hakuouatsushi2006-09-25

 とうとう逝ってしまわれた。
まあ当然なのかもしれないし、大往生なのかもしれません。
そう、大往生ですね……むしろ素直にお疲れ様でしたというべきなんでしょうが、
いや……また観れるとなぜか強固に信じていた自分に驚く。
あの端正な舞台所作がもう一度観れると思っていたのに、信じていたのに。


能面のようでありながら雄弁な舞台は美しかった。素顔でありながら黒子という境地に居た
人形遣いは彼しか有り得なかったと私は思っている。無言の雄弁という矛盾した
芸術の境地に彼は間違いなく居たのだ! などととダラダラ書いていますが、私がショックを受けているのは
文楽吉田玉男さんが亡くなられてしまったということについてです。
去年から病気で出ておられなかったとはいえ、なんだかとっても唐突に思えてしまう……不思議。
「病気? そんなこともありましたかいな」と言って大阪・日本橋文楽の総本山がある場所)に
スラッと、昨日までの休演が嘘のように登場するに違いないと
勝手な思い込みで昨日まで来てしまった……。
 どこの国だったか、「一人の老人が死ぬことは大きなひとつの図書館が無くなったのと一緒だ」という
ことわざがあった。そうだ、私たちは伝統というジャンルの「国会図書館」を失ってしまったのだ。
 返す返すも大きな損失と、自分がまだまだ観れなかった彼の舞台の多さに呆然としてしまう。
ただ祈れることは、ありがとうございました、安らかにお眠りくださいということだけだ。合掌。


 伝統芸能について触れたので、ちょっとさらに書き記しておきたい。
ますます一般的に興味のない話題になってしまうが、たまにはこんな日もお許しいただきたい。

●「芸術劇場」(NHK教育
清元という伝統音楽ジャンルの名作舞踊、『かさね』が昨夜NHKで放送された。
男が女を邪魔になって殺す、そして女にキッつくたたられるという筋。本当はもっと複雑なストーリーだが、
はしょって書くとこういうことだ。その男を天下一の男前歌舞伎役者・市川海老蔵、女を市川亀治郎が演じていた。
 まず記しておくと、この舞踊は難題にしてとても見所の多い面白い作品で、歌舞伎舞踊を知らない人でも
初見で結構楽しめるものだ。派手な所作(アクション)が多く(鎌で女を殺したり、いきなり女の顔が豹変して醜く変わったり、男を呪い攻めるようなアクションがあるのだ)
緩急もバランスよくついていて、観るものをあきさせない。
多分これを初めて観た方々は結構満足したんじゃないかと思う。
でも、でもねえ……。
 まずひとつには配役が悪かった。
ビジュアル的に魅せに魅せまくる時代の花、海老蔵が綺麗過ぎるのに対し
外見よりも芸で踊りで勝負してくる亀治郎は、第一に外見がアンバランスで、恋人っちゅーよりも
叔母さんと甥のようで見劣りしてしまう。いやねえ、これってテレビでは大事なことなんですよ。
舞台なら構わないの。ホントに。そして踏み込んで言えば、顔を美しく見せるのはなんといっても役者の腕なのだ。
ひとつにこの役者は顔が下手だった、失礼、「顔が下手」というのは歌舞伎用語で「化粧が下手」という意味である。
ヒゲが目立つような白塗り、口つきのまずさを目立たせるような所作、いずれも「芸のまずさ」と
評されても仕方の無いことである。踊りはまずまず巧いのに表面が気になるというのは、
「地芸」がまだそれだけのレベルだということにほかならない。
時代的な所作の亀と、VTR的に現代的な動きの海老蔵が動けば動くほど違和感を生み出してしまう……。
 それからビックリしたが若成田(海老蔵)のセリフの下手さ加減には驚いちゃいましたね、
ああ……現代劇ばっかりやってる高麗屋の二の舞がここに! おとっつぁん何にも言わないのだろうか。
常磐津まで習ってセリフを克服しようとした団十郎があれを無視するなんて……親バカにもほどがある。
 それからいくら小さい劇場とはいえ裾を気にしすぎ。男役があんなに足さらけ出した格好で
裾を気にするなんて役にかかわる勘違いだと思う。チマチマしたダサい男になっちゃうよ、
それにあの状況真っ暗なんでしょう、それで小さな裾の返しを気にするなんて、
気が入ってないことこの上ない。行儀の悪さが気になって仕方なかった。
まだ書き連ねさせてもらうが、ギョロ目の使いすぎが返って効果を失わせている。
せいぜい1舞台に2回が限度だろう。目をひん剥くことが「目千両」にはつながらないのだ。
 などと評論家ぶって偉そうなこと書いてますが、歌舞伎だとどうしても厳しくなってしまう。
反論のある方もあるでしょうが、「好きなんだからほっておいて」という最近のファンの風潮が
私は嫌で嫌でしょうがないのだ。私も海老蔵のスター性には大きな魅力と期待を感じている。
そして亀治郎という役者の並々ならぬ吸収力のよさ、セリフの古典的な味わいのある口跡は
ひょっとして若手一、いや、福助世代を含めても将来の随一になれる可能性のある人だと思っているのだ。
 でも、でもねえ、だからこそ、ファンが目を肥やして厳しいこと言って、
期待に背いたら「フン!」ってな態度をとるべきじゃないだろうか。
野村万齋にも同様のことを感じるが、結局受け手にまーーーーーーーーーーーーーったく古典の素養が
無さ過ぎるのだ。でも古典のスターが出てきたら褒めちぎるばかり。


「へえ、知らないけど面白そうじゃない?」
「ええ、普通に感じるままに面白がっていただければいいんです」
などという古典芸能者と観客のやりとりはよく聞かれるところだが、
それって結構な落とし穴のある会話なのだ。
きちんとした修練を積んで立派な芸のある人は、
「観たままに感じて、愉しんで、分からんところがあったら聞いてください」と言えるだろう。
だけどそんなこといえる人、今日本に何人いるのだろう。
また、最低限の観客としての素直な目と素養も、古典芸能に限り必要な姿勢だと思う。
まったく違う日本語と形態で彩られた世界なのだもの、興味のない人はハッキリいって観ないほうがいい。
だってねえ、つっまらないものって物凄くクソつまらないですよ。そして分からないでしょう。
筋が地味だったり、役者が揃ってないと、初見のお客さんに薦められない演目のなんと伝統芸能は多いことか。
興味がわいて観にいきたい、お金払ってもいいかな、という気持ちになれたときにに、
よく歌舞伎を知ってる人に「今回は面白い演目と思うよ」と薦められて初めて観るのが、
多分一番幸せな古典との出逢いだと私は思う。(まあその「知ってる人」の[セレクトが一番肝要なわけだが。笑)
 かつて国立劇場の事務方が学生の歌舞伎演劇を企画し、○年かかって10万人だか(ちょっとあやふや)見せたとき、
「これで1万人は未来の歌舞伎ファンをふやせたと思います」と自信満々に述べたとき、ある大名題
「じゃあ残りの9万人を歌舞伎嫌いにさせた責任をどうとるんだい?」と訊いて相手を絶句させたという逸話が
残ってますが、まさにその通りだと思う。歌舞伎は単なる芸能であって教養でもなんでもないのだ。


 もんのすごく上から目線で書かしてもらうが、伝統芸能の客席における90%は
「とりあえずあんまり興味ないけど勉強というか『見たことあります』的発言のために来た客」と
「たいして巧くもないけどキャリアだけはあるパフォーマー」の
もんのすごく不幸な出会いが占めている現状だと私は思っている。
「やっぱつまんないねえ」という感想をもたれても仕方ない表現者が佃煮にするほどいるんだもの。
「偉そうに」と思うかもしれないが、これは事実だ。
師匠の芸を喜ぶのは弟子しかいないような世界なんだよね。全員じゃない、5人ぐらい日本舞踊では達人がいる。
歌舞伎だって8人ぐらいは地芸のある役者がいることにはいる。でも毎月歌舞伎座に出てるわけじゃない。
まあ、そんなもんだよね……ってああ! つまらない文章だなあ! 誰も興味ないようなことをこんなに長々と。
 私たちは『文楽』という世界で、誰に見せても素晴らしい芸を持っていた人を今日亡くしてしまったのだ!
 悲しいが、その芸が少しでも受け継がれることを祈る。
そして、安らかに御霊が眠られることを祈って。本当に吉田さん、お疲れ様でした。ありがとうございました。


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