【改訂版】いじめ、そして自殺の連鎖に思った長文・その2

さて、ちょっと長い文章を書きましたので昨日と今日に分けて載せました。
いじめとか教育的なこと、ちっとも自分の得意ネタでもなんでもないのですが、
あんまりモヤモヤするものだから、ちょっと思考をまとめたくて今日の午前を
使い切ってしまった。暗くて思い話かもしれない、興味のない人はどうぞスルーしてください。


●いじめと自殺――もったいないことこの上ない!


 はい閑話休題。昨日は先生に悪態ついてたとこまででした。
 で、何が言いたいのかというと、
「簡単に死ぬには、もったいない世界だ!」ということを、いじめを受ける前に知ってるか否か、ということが一番大事なんだと思うわけですわ、この問題を語る上では。
 世の中には美しいものがいっぱいある、楽しいことがいくらでもある、ということをいかに触れさせて、感じさせてきているか、そこしかないんじゃないだろうか。教育ってそういうことなんじゃないだろうか。「いじめ」はなくならないし、いじめられる奴は結局人生でいじめられキャラになる確率が高いのだ。これはもうどうしようもない事実だと思う。だからこそ、頼りとなるのは「そこ」しかないんだ。このことに目を逸らして話しても何も進まねーんじゃないか!? 


 中学生、っていう時代はとかく自宅と学校、そして塾ぐらいが「全世界」になってしまうキュークツな時代だ。うっとおしいことこの上ない時代なのだ。ゆえに学校でいじめに遭ったりすると「全世界から否定されてる」ような気になってしまい、死に直結してしまうような考えになるのも、わかる。
 けどねえ、もったいないよ。いろんなこと味わうことなく死んじゃうなんて。文化も恋愛も仕事して金もらう喜びもセックスも知らないなんて。いじめ、のような酷い、おそろしいことと同じぐらい世の中には楽しく面白いことがあるのだ。そう、辛いことと同量、人生には嬉しいことがある。これは間違いないのだ。そのことをなんで大人は知らしめないのだろう。
 子供というのはすっごく即物的で打算的な生き物だと思う。辛くても悲しくても、得があると耐えられたりするものだ。「いじめをなくしましょう」なんて絵空事でなんの具体策もない提案よりも、「大変だろうけど、大人になったらこーんなことやあーんなこと出来るんだよ、知らないともったいないよ」っていう提案のほうがよーっぽど嬉しいと思うけどなあ。私は中学生のときに家庭教師の先生から聞く大学生生活が楽しそうで羨ましくって仕方なかったもの。カッコいいなあ、俺もそんなの早く味わいたいなあ、という夢で結構なごまされたけどね。


 私には教育問題のニュースを聞くときいっつも「ピント狂ってるなあ」と思ってしまう。「事実関係を明らかにしていじめを根絶」だの「今度の自殺がなぜ起こったか考え、明るい学級づくりを」とか聞いてると、不謹慎だが笑っちゃうものね。いじめがなくなるわけないじゃないか。そんなこと出来るぐらいなら世の中の嫁姑問題だの職場の人間関係問題とか、とっくになくなってるっつーの!
 「あまおう」だか「ジャムにもできない不良品」だか知らないが、そんなレッテルをつけていた問題教師だって今更何をかいわんや、だ。ヒドイ先生なんていっくらでもいるでしょう、いつの時代でも。「昔の先生はもっと責任感があって、人の規範としての心構えが……」なんてこと滔々と述べてたコメンテーターがいたが、フザけちゃいけない。藤子不二雄手塚治虫の漫画で少年時代を描いたものには、昔の理不尽で権威主義的な先生がいくらでも出てくる。ルナールの「にんじん」なんてのに出てくる先生も嫌な奴だったよなあ。
 とにかく! なーんでみんな教育に関すると「性善説」に急に基づくのか分からない。先生や学校なんてちっともアテにならない存在なのだ。「人間教育」なんてのはしてくれるわけもない、健やかに精神と肉体の成長をうながす場所であるはずがないのだ。(だから逆説的に「金八先生」がドラマ足りえるのだと思う)
 学校というのは社会に出るまでのミニチュア体験プレイスなんだよなあ。世の中には嫌な奴、気の合わない奴がたくさんいるところ、それとどうやってつき合うか。ダメな嫌な先輩・先生は上司のミニチュアだし、嫌な同級生は同僚のミニチュアなんだもの。朝は何時に来なきゃいけない、期日までに提出する習慣づけ、公共物の取り扱い……結局「会社生活」になれるための訓練所なわけだし、「社会での常識とされることの予習」をちょっとずつすることろなんだよんね。「いい子」「立派な子」を育てる場所でもなんでもないのだ。そっから見つめなおして、コンセンサスを変えることが大切なんじゃなかろうか。
 中高で学ぶことで一番大事なことは他でもない、私断言しますね。「みんなと『テキトーに』仲良くできること」このスキルをゲットすることに尽きると思う。運動でも勉強でもそこそこに出来て、自分の我をうまいこと見え隠れさせながら生きるテクニック。大多数の人間にとっては、社会で生きていく上でこんなに大切なこともないだろう。そうやって生きることが、平凡なマジョリティにとっては一番大事なこととして学生時代を過ごさせておいて、いざ会社に入ると能力主義だのディベートだの求めるからひずみが生まれるんじゃないかと思うなあ。うーん我ながらエラい駆け足だ。
 

 話がドンドンそれていくが、結局心からぶつかってあげられるのは親しかないのだ。子供に「こんなにも世界は楽しく美しいものがあるんだ」と教え込む、それもできれば小学校にあがるまでに。何も難しくないと思う。親が、自分が美しいなあ、素晴らしいなあと思っているものを楽しんでる姿をそのまま子供に見せればいいだけのことじゃないだろうか。特に趣味もないという人なら、日曜日に奥さんと仲良くしてる姿を見せるだけでいいのだと思う。人を愛して、思いやって、感謝してる姿をみせることほど美しい教育はないと思う。それだけで人間というのは捨てたもんじゃない、美しい心も持てる生き物なんだと、子供は分かると思う。もし趣味もなく夫婦仲も悪く、仕事に打ち込んでる姿も見せられないような親なら、子供が悪いのでも学校が悪いのでもない。親に問題があるから子供が不安定になる、それだけのことだ。 
 うおー長い! 結局取りとめもない文章だが、教育なんて親しか出来ないことなのだ。学校は「中卒」「高卒」という世に出てく上で必要な資格をもらうだけのところ。いじめにあったら、もう極論だが(外部的解決方法としては)すぐにどっか転校するしかないと思う。いつでもどこでもいじめはある。老人ホームのいじめだってあるんだもの。そう、最初にも書いたが、いじめられやすい人、ハブられやすい人、嫌われやすい人、というのは生涯かけてそういうタイプなのだ。でも人間なんてそんなもんだろう。だからこそ、「いーもんねー別に寂しくなんかないもんねー」という自我を育てることが大事なんじゃないか。そのためには「こんなに愛してる○○」という心の支えが必要なんだろう。映画でもスポーツでもイラストでもなんだっていい、自分にはこれにかけては人に負けないもんね、好きだもんねという、「しがみつけられるもの」があればいいのだ。それを持てるかどうか、「あのことをもっと知ってみたい、やってみたい」と思える何かをもてることが、大事なんだ。周囲を変えようなんて間違っても思わないほうがいい。
 中学校に上がるまでの人間形成、ここが一番肝心な気がしてならない。こんなことを考えた午後。
フー疲れた、最後まで読んでくださった方、ほっとんどいないでしょうがありがとうございました。


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