「仏像 一木にこめられた祈り」鑑賞記その1

hakuouatsushi2006-11-18

●「仏像 一木にこめられた祈り」(東京国立博物館にて)
12月3日まで 公式HP:http://www.butsuzo.jp/


 この展覧会に行ってよかったなあ! 心からそう思った。
それは美的興奮とか芸術的感興とかいった平凡な言葉を超えて、「生まれてはじめてのことをした日」だけが持つ
キョーレツなインパクトを残してくれるものだったから。
 それはたとえば私がジャングルに住む原住民になったとして、ボーっと知らぬ森の奥深くを歩いていたら
突然イグアスの滝に出会ってしまったかのような、そんな価値観がひっくり返ってしまったような気持ちにも似て。
もしくは伝説上の「火の鳥」とか「麒麟」とかを偶然見かけてしまったかのような、
ある種の「未知との遭遇的ショック」、そんなものを与えてくれた経験だったように思う。
そう、なんつーか「思考停止」な感じですね。プリミティブな衝撃。「これは、タダモンじゃねえぞお……」
「なんだかわからんが、すごいー……」そんなことをブツブツ呟きながら巡回した展覧会久しぶり。
とってもエキサイティングな経験でした。オーバーなようですが、そう思った第1の理由から。


●「作らされているだけだ」
 かつて何の本だったか忘れてしまったが、とある仏師だか彫刻家の言葉で
「仏像を彫っているのではない。木に仏様が埋まっておられるのが見えるのだ。そしてそれを刀でなぞっているだけだ」
というのを聞いたことがある。そのときはただレトリックとして「うまいこというなあ」と感心しただけだったが、
展示されてあるいくつかの仏像からは、その言葉を裏付けるとしか思えないようなリアリティが感じられたのだ。
そうですね驚愕というのか陶然というのか……変に言葉を尽くすとつまらなくなってしまうような気が
すっごいするのだけれど、ともかくある種の情景がフワーッと目の前に広がっていったんだなあ。
「ホントかよ」と間違いなく言われるんでしょうが、私には、
仏像に重なるかのように元の大木が見えてくるような、そんな気がホントにしたのだ!
大きくその上部に枝を広げ葉を茂らせ、大地には大きく隆起した根の数々が
四方八方に広がっているのが見えるかのような立派な大木、そんなイマジネーションが
フワーッとまぶたの裏に広がっていったその不思議……。


●巫女的経験なのか自分の芸術発見なのか?
 こんな例は他のジャンルでもたまに聞かれることだ。陶芸などで土に触るとおのずと仕上がった形が見えてくるので、
そのままこねてるだけだと語る陶芸家だとか、作曲家でも「白い譜面を置くと音符が見えてくるのでそれをなぞるだけ」
だとか……。多分にシャーマンチックな話でどこまでが本当か分かったもんじゃないし、
こんなことをいう人がいたら結構な眉唾モンだと私も思うが、いくつかの仏像は、その作者が
「木から見えちまったんだよ仏さんが」などと言ってたかどうかも分からない作品なのに、
対峙したとき自然に元の木のイメージがフワーッと脳裏に浮かんできて自分でも驚いた。
 もうこんなことは推測でしかないのだけれど、多分この彫師は「うわーッ!ホトケさまだぁーッ!!」と一心に、
純粋に、まっしぐらにノミを進めたんだろうなあ、ただそれだけなんだろうなあと思っちゃうんだよね。
完成時のデザインが見えたかドーとかいうことはこのさい置いとく。それは宗教的感動によるものなのかもしれないし、
彼個人の美的大発見だったのかもしれないけれど、「木」に対して非常に強い「念」を注入しながら、
ひと彫りひと彫り進めていったことは間違いないと確信してしまう。それが多分「入魂」ということであり、
1300年のときを超えて人の心を打ち、感動を呼ぶパワーの源泉に他ならないと思うのだ。
そう……多分それはフレスコを全身全霊で描いたときのミケランジェロのごとき執念だったのではないだろうか。
 当時の木造仏の材料はその多くが神木・霊木の類いだったというから、
今よりもずーっとアニミズムの強かった当時、よっぽどの確信(言い換えれば芸術的信念)がなければ
ノミを入れるなんてぜーったいに出来ゃしませんね。ノミを持った彼を突き動かしたものは、
そして彼に見えていたものは何だったのだろう。


●なぜあなたは彫るのか
 仏像を作る、ということはなんなのか。
 ひとつにはごく基本的な理由として、仏教を広める上でのツールとしてのニーズによって作られるということだ。
すごーくわかりやすい。キリスト教における十字架のようなもので、「目印」としての意味合いしか持たず、
ハッキリ言って「形作って魂入れず」みたいな仏像でも構わないわけだ。次に。
 ふたつ目には宗教的な、修業的な意味合いを持ってくるんだと思う。よく「仏を彫ることによって仏に近づく」
みたいなアレですね。すべての雑念を拝しただ一心に祈りをこめて彫ることによって悟りに近づく的な考えによるもの。
これもまた分かりやすい。しかし「ただやりゃいいってもんじゃないだろう」的イージーさも感じられる。
よく写経用紙を(こんなものが本当に世の中にはあるのだ!
参照:http://www.zengift-senshin.co.jp/onlineshop/syakyo/senshin_hannya.html
なぞって満足しているような人たちにも似た心理構造というか。
 要するに今まで仏像というものは、多くの収集家が世界的に存在しているにもかかわらず、
私にはどーにも宗教とアートの融合というものがうさんくさく、また失礼なことのように思われて親しめなかった。
本来寺院なりでみんなが親しむものとして作られたものを個人が専有するのも不健全な気がしたし、
また個人的な己の救済を求めるためだけに、仏像を作るような人たちもただ
「厭世ピープル」という感じでこれまた不健康だなあ、と勝手に思い込んでいた。
 しかし先の大木を感じさせてくれた仏像から私は、「ああ、これ作った人はただ単にガムシャラに、
自分の中に浮かんだ美的イメージをこの世に産みだしてしまいたくて仕方なくなっちゃったんだなあ!」と思ったのだ。
そう思わせてくれたのだ。そのときから何かが変わった。仏像ありじゃん、という楽な気持ちに
なれたというかなんというか。そう、第3の理由に美しい観音・仏のイメージが心に沸いちゃったから
ただそれだけの理由で作りたくなった、というそんなアーティスティックな行動による
仏像製作もあったんだろうなあと思ったのだ。そして、ここでひとつの発見。
 その「浮かんでしまった美的イメージ」というものが平凡なレベルを超えて、「神」の領域に届いてしまうことが、
人類には稀にある。つまりは「神」があって「宗教芸術」があるわけじゃなくて、
「至高的芸術」があってから「宗教的感動」というパターンだってあるわけだよなあ、と思ったのだ。
宗教界に存在するこの世にない様々な定理、概念、情景……そういったものを
「そうなのかもしれない」と納得させてしまうような超常の「美とかたち」……そしてそれはひいては
一部の宗教者によってたくみに利用されていたのかもしれない……などと走りすぎですね。
宗教美術が神の偉大さをアジテートするために作られていたなんて当たり前だ。
けれど、宗教がもつ独得の概念(極楽浄土とか涅槃とかそういったイメージ)まで表現してしまう
すごいもんがこの世にあるとは、まーったく知らなかった。先の古仏にもそれを感じたが、より圧倒的なパワーで
そんなサムシングを感じさせたスーパー仏がこの展覧会にはあったのだ。
 はい、この続きはまた明日。あんまりにも長いなー。最後まで読んだ人いないでしょうが、ありがとう。


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