感涙とはこういうものか・その2――中野翠さん

hakuouatsushi2006-12-13

 中野翠さんという人の本を最初に手に取ったのはいつだったろう。きっかけも忘れてしまったが、最初に買った本を読んで「面白―い! 他にないのかな?」と思ってさかのぼれば「あ、前作が処女作なんだ」と思った記憶があるので、相当前、多分「迷走熱」からだと思う。調べてみたらなんと87年単行本化とあるから、もう19年前か! 恥ずかしながら私12歳だった……ませたガキだ。


 それから中学生にかけて、彼女の本を貪るように読んだ。この人が「カッコいい!」「綺麗!」というものに関しては全部じゃないが、「どれどれ、どんなもんだ?」と、穴の中から少しずつ世の中を覗くヒナのような気持ちでみつめていた。中野さんが「最高!」といってたパフォーマーのライブに連れてってと親にせがんだり、褒めてる本は立ち読みしたり、展覧会にいったりもしたなあ。(もちろんそれで、自分にゃ合わない、興味ないというものもたくさんあった)常に彼女は「Aが好きなら、Bも多分好きなんじゃない?」という刺激をくれた人だった(と、過去形にすると追悼文みたいで失礼ですね、もちろん今もです)。小津テイストが好きなら、この映画も気に入ると思う、というような具合に様々にブランチを広げてくれるコラムニストで、私は彼女から映画でいうならバズビー・バークレーエルンスト・ルビッチジャームッシュを教えてもらったし、そして何よりも「自分の言葉で書く」ということを教えてくれた人なのだ。
 以前読者の方からもメールで「あなたの書くものにはどこか中野翠的だ」という指摘を頂いたことがあるが、どこかじゃあないんですよね。私の語調とか書き方、書き進め方というのはハッキリ言って中野さんを模倣している。猿真似しているのだ。「いやー」とか「うーん……」とかいう言葉を枕に使うたびに「真似っこだなあ」と思う我ながら思う。そしてそこからまだ抜け出せない。ああ、悔しい! だけどまあ、もちろん書く主題や思ったことにはちゃんとオリジナリティも読む価値もあるもの書いてると思ってるけどね! 
 世の中には「どっかで読んだような文章」があふれている。人がすでに書いたことを適当に直したようなやっつけ仕事文章、自分で心から感じてないようなことをさも体感したかのようなおざなりな文章、平易で分かりやすい言葉を使わず、難解な表現を使用して才能のなさを「木の葉がくれ」しちゃってるような文章……そういうものへの確かな「嫌悪精神」を与えてくれたのが中野翠さんなのだ。勝手に自分だけでそう思っちゃうが、恩人だと思う。オーバーに言うと私にとってのサリバン先生のような人なんだなあ。はい、ここまでペチャンコにアイラブユーを言われたほうもうんざりでしょうね。(まあ中野さんはぜーったいにネット検索とかPCとか駆使なさるタイプの人じゃないと思うので思う存分好きなこと書いちゃうのだけれど)
 そう、ここまで書いてきた中野さんへの「ありがたや」的思い出を、中野さんとの短い邂逅の中で一気に私は感じていたのかもしれない。ゆえに、涙も出て足も震えたんだと思う。あんな涙は人生ではじめての経験だった。あれが、感涙というものか。
 とにかく、やっぱり思い切って声をかけて、私はよかった。彼女はとっても迷惑だったろうが。
どうしてとても素敵なことがあると、人間は歩きたくなるのだろう。その日は歩けるだけ歩いて家まで帰った。風がちっとも寒くなく、ビールがやたら美味かった冬の日。
 別れ際、握手してもらった中野さんの手は小さく、繊細だった。


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