いなづま連想 ―淡々日記―

DEKO

 かみなり、と言うよりもなぜか、いなづま、と呼ぶほうが好きだ。どうしてかは分からないけれど。昨日の東京は一日中大雨、しかも稲光が走り雷鳴とどろく結構な荒れ模様だった。そして今日は嘘のような綺麗な青空で暖かく、もうすぐ大晦日(これも古式ゆかしく「おおつごもり」などと読んでみたいところだけれど)なんて嘘のようなほがらかさだ。こんな年末って今まであっただろうか。
いなづま、なんて言葉をキーボードに打ってはじめて気づいたが、これって「稲妻」と書くのに「いなずま」という変換が一般的なのですね、慌てて辞書で引いたらどちらでも間違いではないようだけれど。「妻」がなぜ「すま」の濁音になるのだろう。日本語って難しいな。(多分識者からしたら簡単な変化規則なのかもしれない……お詳しい方いらしたら教えてください)ちなみに稲妻、というのは秋の季語。へえぇ……何々、古くは稲穂というのは稲妻を受けて結実すると信じられていたため……へーぇ……いにしえ人のロマンですね。そう、一単語調べるといろいろな補足知識が書いてあって、そんなところにも辞書というものの愉しみってあるんですよね。というと冬の稲妻、春の雷光なんてのは季違いになるんだろうか。
いなづま、なんて言葉を思い出したら成瀬巳喜男の1952年の作品『稲妻』のことを思い出した。今はなき名画座、銀座の並木座で高校時代に観たなあ。ここは後ろのほうに大きな柱があって、早めに行ってよきところを押さえないとちゃんとみれないのだ。狭くて古めかしい小屋だったが、あそこより素敵に古い邦画を楽しめたところを私は他に知らない。話が逸れた。高峰秀子、三浦光子、村田知栄子といった芸達者演じる異父姉妹が、狭い家の中ひしめき合うように住んで互いに我儘な言い分を突きつけあうといった、映画だった。それは決して交わることも折れることもなく、肉親ゆえのエゴイズムがただ垂れ流されるような、オチのない、やるせない話だったように思う。しかし子供心に「人間って怖いもんだなあ。けれど、強いもんだなあ」とおそれながら笑っちゃうような、独得の人間観に貫かれた映画だった。成瀬監督ってのは「まぁこんなもんでしょ、人間って」というどこまでも突き放した目線のある人だったと思う。「それじゃ救いがないじゃない、スッキリしないじゃないの観ていて、ねえ!」と思う人が多いのも分かる。だからこそ「ヤルセナキオ」なんてあだ名も付けられちゃったんだろうなあ。
そんなことを寝しなに考えていたらイビキが聞こえて驚いた。自分のだった。半覚醒というのは自分のイビキまで聞こえるのか。ビックリ……そうしてるうちに寝た昨日の夜。


稲妻 [DVD]

稲妻 [DVD]


●お知らせ
ブログランキングに登録。 どうか1日1クリック↓してやってください。
http://blog.with2.net/link.php?198815
ご意見などはこちら→hakuo-a@hotmail.co.jp