梅に想ふ −古典連想雑記−

いい香り!

うわーなんだか嬉しいなあ、梅だよ梅ですよ梅がもう咲いちゃってましたよ帰り道! いやーなんだか嬉しくなっちゃって人様のおうちだというのに写真撮ってしまいました、花を咲かせていたのはたったひとつでしたが、その他にも膨らんだ蕾がそこかしこに。花を近づけてみれば芳(かぐわ)しい香りがほのかに漂って。あぁ、なんなんでしょう胸にポワ〜ンと広がるこの嬉しさ、高揚感は。たった一輪の花が咲いているだけだというのに。我ながら安上がりに出来ている。
 よく考えてみたらさっすがに早過ぎるよなあ、まだ一月四日だもの。温暖化とか異常気象とかネガティブな言葉が頭をかすめるが、花に罪はないんだものね。手入れの行き届いた枝ぶりにひとつ咲く紅梅の姿は、なんとも美しかった。


 なんでかくも紅梅、そして白梅というのはおめでたく清々しいものなんだろう。
このデザインで最もポピュラーかつ有名なものはやはり尾形光琳の「紅白梅図屏風」でしょう、熱海のMOA美術館で本物を見たことがあるが、うーん……すんごい迫力でポップなデザインに圧倒された。ザッツ・古典といったマスターピース的重厚感とは無縁の遊び心が満載なんだよね、「こんなことやっちゃったら面白いかなあ!」みたいな描くことの興奮とイキオイをすっごく感じさせる作品。それでいて美的均衡の完璧さは宇宙的水準で……しばし私は屏風の前でボーっとしていた。
 観る人によると白梅は女、紅梅は男を表していて、エロティックななまめかしさが根底にながれていることがこの作品を決定的な名作にしている、という解釈もあるのだとか。ふーん……なんか直球な見方のような気もするけど。まあ尾形光琳の作品は確かに、装飾性や色使いといった表層的な部分ももちろんだけれど、オーラやその作品の持つ空気のようなものがどこか常に艶美で芳醇な匂いを従えているもんね。梅の持つ清らかな晴れがましさを、なんとも華麗ににデザイン・アップしたこの屏風、日本のめでたい春をイメージした最高作なんだろうなあ。
 参考資料・これです


 梅ねえ……というと古典芸能がやっぱり目に浮かぶ。清元に「文売り」という曲があって、歌舞伎の「廓文章・吉田屋」の場で主役の伊左衛門が着ている「紙子」という衣装を、女が着て踊る素敵な振りがついている。この踊りでは決まり舞台として左右に紅梅白梅が置かれ、最初の花道の出では手に梅の枝を持って踊るのだ。女二人のいざこざをマイムのように踊りつないでいく楽しい舞踊なのだが、過日NHKで放送された中村芝翫の愛娘、舞踊家中村光江が踊ったそれは非常に出来の悪いスッキリしない踊りで、間も悪ければ決まりどころがすべて活きないメリハリのない仕上がりであった。役者の娘とは思えない口跡の悪さもにわかに信じがたく、この踊りをつまらないものと思っている人が増えているようで悲しい。
 そのほかにも長谷川一夫が映画でやった「藤十郎の恋」を舞踊化した「夜の梅」だとか、ご宗家・藤間勘十郎家の持ち物で「出雲梅」なる祝儀物があったりと、さすがに様々なシーンで梅は登場する。ちなみに歌舞伎役者・中村歌右衛門系の替紋(正式の席ではなく日頃の衣装、持ち物につける紋)は裏梅、と呼ばれる梅を裏返しにした意匠。梅の美しき「花の顔(かんばせ)」をわざと見せないようなスタイルも、なんとなく日本的な気がする。
 古典芸能、と呼ぶにはためらわれますが、やっぱり梅とくれば泉鏡花の「婦系図」でしょう、「湯島の白梅」と呼ばれる人気狂言で「別れるの切れるの、そんな言葉は芸者のときにいう言葉」とい名文句も有名だが、いまやすーーっかり知る人もないだろうなあ。私だって古典に興味をもったからこそ知ってるだけで、これらはもはや死に絶える文化なのだろうか。梅の花は散ってもまた一年後に花をつけるが、新派も踊りもキチンとしたものを知ってる人が死んでしまえばもう二度とその文化に花を咲かせることはない。たかが芝居、たかが踊りというかもしれないけれど。
 今日は梅連想でお茶を濁しました。明日はグッとナンパに戻ってお正月のテレビ雑記など書くつもり。


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