映画 『バベル』

映画『バベル』

  私達は一番近しい人のことをどのくらいわかっているだろう。両親、子供、配偶者、恋人……コミュニケーションの不在、不足から起こる不幸。最初は小さく絡まった糸が、やがて解きほぐすことのできない大きなもつれになっていく。そんなドラマは往々にしてあるが、このドラマはさらに、モロッコアメリカ人、アメリカのメキシコ人といった異なる文化圏のトラブルを巻き込んでさらにその絡みを複雑化させていく。


 ひとつの悲劇がさらに不幸を呼んで、それがまた新たな災厄を呼ぶ、といったスタイルの話は珍しいものではない。しかしそのスケールの大きさと構成力、そこを描ききった監督は確かに見事、ソツがないなあ。
 うーん、でも私は思い返すだに書きたいことはただひとつ。なんといっても菊池凛子の演技力、というか「表現力」(この言葉の違い大事)これに唸った。すごい。言葉、という役者一番の武器を奪い去られてなお、スクリーンから洪水のように溢れ出る悲しみや不安、愛を求める渇ききった心の切なさ、その「濃度」に胸を撃たれた。


 もんのすんごい独断なのだけれど、私は映画俳優ってのは「黙っててナンボ」だと思っている。小津安二郎の映画でいうと、話の筋を進めたり、テンポの緩急つけるのは達者な舞台役者、杉村春子とか浪花千栄子の役目なわけです。しかしドラマの核をなす「もののあわれ」といったものは、映画俳優(主演者・スター)が作りあげた役、そこからにじみ出てくるものに他ならないと思う。それは叫んだり泣き喚いたりして生まれるもんじゃなくて(こーいうのは野暮な熱演ね)、立っているだけで自然湧き出てくるものなんだ。そう、映画主演者というのは演技力の巧緻よりも、表現力が何よりも要求されると私は思ってる。(そういう意味だと一時期の薬師丸ひろ子とかがいい例。ずば抜けていたのが何といっても山口百恵


 いくら言葉を尽くしても埋めれぬ溝、言語・文化の違う相手に対して生じやすい誤解……そういったものを救うのは「愛し愛される能力」であり、「人と人を結びつける映画」を作ったと語る、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督。その狙いは、言葉の不自由な菊池凛子が最後、親の愛によって抱擁され号泣するシーンで見事に昇華したと思う。結構ベタな「愛だろ、愛!」映画だった。いや、褒めているんです。
 


○追記
ブラッド・ピットケイト・ブランシェット役所広司などお馴染みの俳優はいずれも好演。しかし今までのキャリアと比較して格別目新しい進境を見せているか、といわれればそれほどでもあらず。そんな中、新鮮味があるぶん得ということを差し引いても「二階堂智」という日本人俳優が光っていた。「地に足のついた演技」とでもいうのだろうか、そっと役に徹し、「自分を見せよう」「この役でのし上がろう」というヘンな気持ちがまったくないところがいい。私は彼を見ていたら、日本映画の古典ミステリー『張込み』における大木実をなぜか思い出していた。


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