古典を「勉強」する人に思う

 ※いきなり逃げから書き出しますが、今日は(いつにもまして)つまらないことをタラタラ書いちゃいます。いつものバカ日記がお好きな方はどうぞ読まないでください。
 

 先日、とある芸者さんに関する本を読んでいたときのこと。芸者遊びをするときには、こーしろ、あーしろという、いわゆる「ハウツー・コーナー」のページに、ひとしきり細やかに芸者遊びの注意点、筆者が思うところの「楽しみ方」が順序だてて書いてあるんだが、自分でも不思議なくらい怒りというか呆れというか、身体が熱くなってビックリしてしまった。ああ、若年性の更年期障害であろうか!? いや、冗談抜きにめまいしそうだったもの。うーん……芸者、という「粋(いき)」の頂点みたいな存在を取材しながら、どうしてこんな野暮ったいことやっちゃうんだかなあ!? 「えーどうしてー、芸者遊びなんてしたことないし、ハウツー知ってたほうがいいじゃん」「あーいう世界って作法とかしらないと恥なんじゃないの?」という意見が大半で、世間的には「正論」なんでしょうね。うん、今日は私が腹を立てた理由を書くことで考えてみたい。「粋(いき)とは」「野暮とは」というこの形のないものを、私なりに明らかにしてみたいのだ。


 いきなりこんなことを書いても身もフタもないのだけれど、古典芸能とか文化というものは、これすべて「習うより慣れろ」しかないと私は思う。学問以外のことを「勉強」しようとするほど、愚かしく、野暮なことはないのだ。
 その章は題して「マナーと遊び方は?」というもの。「敷居・畳のふち・座布団をを踏むな」「はじまりの挨拶までは正座」「踊りが始まったら鑑賞に専念」「芸者さんはお姐さんと呼べ」「お姐さんにも酒を勧めろ」「ご祝儀を渡すタイミングでポイントが上がりも下がりもする」だのなんだの……あーっもう! シュウトメかお前は!! お義母様すいません!!
 まず第一に、畳のふちだを踏むなだの基礎的な和の礼儀作法に疎い人は、料亭になど行かなきゃいいじゃないか。レストランで同じ値段払ったほうがよっぽど美味しく、楽しいひとときを過ごせるだろう。それに、芸者さんが踊ったら鑑賞する、というのも当たり前だ。でも知らないと恥ずかしいし……でも料亭って一度行ってみたいし……そーいう人も多いだろう。いや、多いのだ。塩月弥栄子「冠婚葬祭入門」の昔から、この手の企画が人気なのは、そーいう人が多いからに他ならないし、手引書というものの重宝さは認めるつもり。
 しかしなあ……袱紗の包み方覚えるのとは話が違う。つまるところ、「遊び」じゃないか。靴脱ぐところから送られるところまで、細かに「あーしろこーしろ」というマニュアル読んで遵守するような窮屈な思いをしてまで、高い値段払って行きたいもんか!? 「そういう席に何度も足を運ぶことで、どこに行っても恥ずかしくない人間に……」だの「和の心にも触れてグローバルな日本人に」なんて考え方をする人もいるらしいが。うーん……自分でも暴言だと思うが、ああ、バッカみたい!


 「マナーや文化素地を身につけるために」料亭に遊びに行くという了見が、まずもって貧乏臭い。「粋(いき)」を主とする芸者遊びの対極にある考え方だと思う。マナーはなくとも、心根が素直で寛大でケチ臭い人間でなければ、芸者衆も料亭の人々もその客を愛することだろう。マナーは完璧、一通りソツのない遊び方でも、「お仕着せのマナー」にのっとった客というのは窮屈で退屈な存在でしかないのだ。プロの芸者連がそれを見抜かぬはずはない。それが「粋」という価値観の真反対にある「野暮」ということじゃあないか。お仕着せのマナー、というのは言い換えれば「本から得た知識」ということだ。自分で経験して、自分で恥をかいて、自分で人に聞いて得たものしか、美しいマナーにはなりえない。これが真髄だと思うが、マナーというのはエレガンスのあとに位置するものだ。逆にいえば、精神の優雅とイノセンスさえあれば、基本的に何をしてもいいものだと思う。うん、マナーというのは「知ったかぶりをしないこと」、ここに集約されるんじゃないだろうか。
 分からないこと、知らないことに傲慢であってはいけないが(「誰も教えてくれなかったもん!」とか「そんなの知らないよ普通」とか、子供がよくいうアレね)、知らないことに謙虚であれば、それでいいと思う。知らないことを指摘されたら、「ああそうなんですか、ありがとう」と素直に述べられることが、一番美しいマナーじゃないだろうか。カーッとなって縮こまったり、自意識過剰に恐縮したり、ムカッとして逆ギレする、そーいうのが一番のマナー違反だろう。そうだそうだ(自分で相槌)、もしマナー違反を指摘してくれた人に対して「ありがとうございました」と心から言える人がいたら、とっても素敵だなあと思えるもんなあ。いやもちろん、自分も、かくありたいと思います。そんな立派な人間じゃないっす。


 うーんでもね、ここまで書いたから書き尽くしますが、私が古典を「勉強」しちゃう人々に感じる一番の嫌悪感は、「知らないと思われたくない」という虚栄精神の存在なんだなあ。歌舞伎でもやれ「誰それにとって何某は大叔父」だの「家紋の由来」だのどーでもいい知識を披露しては「このぐらいは常識」とか半可通ぶる輩がいる。「渡辺保さん(高名な評論家)の意見では……」とか人の意見ばっかり鑑賞の指針にするヤツがいる。ああウンザリ。じゃあ自分はどう思うのか、どう感じたのか、何か拠り所がないといえないモンだろうか。
 いろんなことを知っている、ということが……なんちゅうか「預金残高」をセッセと増えしているような、ビンボー臭い感じがするんですわ、私にとってその筋の人は。英語はロクスッポ喋れないのに、単語力だけやったらある人みたいに思えてしょうがない。
「見識」は教養だが、「知識」は情報でしかない。そこんとこを気づいているかどうかが、その違いを分かるかどうかが、粋と野暮を決定的に分けるポイントじゃなかろうか。と、こんな愚にもつかない文章を一人タラタラ書いていることのほうが、よっぽど野暮なんですけどね。


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