「YouTube」というこの便利なシロモノ・2

このB面に今ハマっている

(昨日からのつづき)


「好き」という感情の総量・質量って、今の人と昔の人で、違うんじゃないかな、とまで思ってしまうのだ。


 あとから振り返えると、
「よくあんな面倒くさいこと、シゲシゲとしてたなあ」ってなこと、誰かにハマっているときって、しているもんじゃないだろうか。


 私の場合は、映画だった。毎週日曜、埼玉県の川越市から有楽町まで電車に乗って、並木座という名画座に通っていた。そして毎週、小津安二郎成瀬巳喜男の二本立てを観ていた。古本屋を見つければ必ず入って、古い映画雑誌や本を買いあさっていた。「小津安二郎 人と仕事」という伝説的な名著がある。当時すでに絶版だったのだが、どうしても読みたかった。なので版元に何度も電話して交渉し、「そこまで仰るなら……」と一部売ってもらったりもした。


 別にそーいうことしたから、「好き」ってものの質量が単純に上がるとは思いません。
 ただ、こーいうことしてると、自然に映画以外のことも知ったりするでしょう。
 古本屋独得の空気、書店の人々との対話、名画座の人達の雰囲気、原節子を見つめるおじいさんの眼差し、映画出版の人々との会話……いろんなものを含めて、「映画」という文化だ。
「映画が好き!」という感情から起こした衝動の数々は、「映画を見る」という以外のことも、様々に私に教え、知らしめてくれた。


 なんだかYouTubeから話が逸れているようだが……うーん。
 ちあきなおみを例えにすると、ちあきなおみに興味があって、一度も「動いているちあき」を見たことのない人が、いきなり「ライブ」を見れちゃう。これって、非常に便利だが……やっぱ「文化的じゃないなあ」と思うんですね。「何をえらそうに」って言われそうだなあ。すいませんすいません、でもね。


「興味を持つ」というところから、「好き」という感情を抱くに至るまで。
 そこに、どんな「思いの層」が重ねられているか。これが好きという感情の純度を決めると思うんですわ。人ひとりのパフォーマンスを「ネット上に流れているデータ」と思うか、「鑑賞すべきライブ」として向き合うか。そこが、その鑑賞者の中でまだ定まってないときに、「見れて」しまう。
 これってさあ……悪い言葉ですが「知ったような気」になっちゃうもんでしょう。そしてまた「いつでも見られる」って感覚でいる。これやっぱり……アーティストに対する「対峙」ではないもの。やっぱり、薄いよ。


 結局、このモゾモゾはノスタルジーなのだろうか。うーん……二日にまたがって書いてる割には、結局うまく解明できなかった。「もう年寄りだから、スルッと利器に乗れないんだよ」ってことに集約されるような気もするし……。
 ああ、でもやっぱり「YouTube」って、時々「また貸し」したときのような、図書館の本を延滞しているときのような、ムズ痒さを感じさせてしまうシロモノだ。



○今日は何の日
アクアビクスにハマっています。きちんと一日おいてから筋肉痛がやってくる。ハヒー。一日中ジョン・ウォーターズについて考える。これは仕事。世の中は「殺人餃子」「殺人グラドル」のニュースで持ちきりである。そして倖田來未の「羊水発言」について日がな報道が。「これを信じる子供がいるかもしれない」という発言も。テレビを見ていると疲れる。癒しを求めるかのようにテレビ東京大忠臣蔵」にかぶりつく日々。はひー。



○お知らせ
ブログランキングに登録。 どうか1日1クリック↓を。
http://blog.with2.net/link.php?198815
ご意見などはこちら→hakuo-a@hotmail.co.jp