岩松了作・演出 『恋する妊婦』

 舞台が嫌いだ。
 厳密にいうなら、ストリートプレイの舞台が嫌いだ。理由は単純、つまらないから。これに尽きる。舞台、というものは究極的に「観る側」よりも、「演じる側」のほうが楽しいものだと私は思っている。私も舞台経験があるが(もちろん、超極小劇団ですが)……「舞台は一度やったら辞められない」、というのはある種、真実だと思う。
 しかし、「舞台は一度観たら辞められない」と断言できる舞台人はいるだろうか。
 世の中に芝居は星の数ほどあれど、「素晴らしい舞台」は少ない。
 役者的自己愛という名の「熱演」や、サークル的な「仲良しごっこ」「楽屋オチ」、そして喜んでいるのは出演者のファンだけというお芝居……「アチャー」な舞台はそれこそ無量大数
 しかし! 
 やっぱり舞台は、凄いものなのだ。舞台ではごく稀に、人知を超えたことが起こる。そーいう「非日常」を一度味わったら、もうダメですね。その後どんなに「ウンコ以下!」と罵倒したくなるような舞台にぶつかっちゃっても、「あのときの、あの興奮を、もういちど!」と思ってまた通ってしまうもの。そんな思いから、私はしばしば劇場に向かう。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
 岩松了作・演出 「恋する妊婦」(2月26日観劇)


 人生において、ここまで「劇場」が退屈に思えたことはなかった。
 主演女優が、「ガン」。
 驚くべきことに彼女は、セリフにおけるフレージングのパターンを2つしか持っていない。2時間半に及ぶこの芝居を彼女が「演じる」ということは、ピアノに例えるなら「ドミソ」「ドファラ」の2和音しか押さえられないピアニストがピアノコンチェルトを2曲分弾くようなものだ。


 映像と違って、舞台俳優というものは、セリフで、セリフ以外のことも表現しなくてはならない。映画やテレビならば、そのセリフに合わせて回想シーンが入ったり、効果音が入ったり、アップや視覚効果が入ったりする。それが助けとなり、総合的に「映像演技」となる。
 しかし優れたセリフ術を持つ舞台役者は、これらを全部セリフ術だけでやってのけてる。
 だから、長ゼリフというのが「もつ」のだ。
 長いセリフの中で役者は、ときに過去をよみがえらせ、未来を映し出し、そして他者になり、ときに効果音的なセリフやアクションを入れ、抑揚とメリハリをつけて、芝居を聴かせ、伝え、魅せる。
 観客は、そんな「セリフ」を駆使する俳優の「技」に酔う。それが、ひとつ舞台の醍醐味だと私は思う。
 そーいうことを出来ない人に、なぜそーいうことをやらせるのか。それが腹立たしくてならない。他の全員も、ほぼ同じような出来。風間杜夫大森南朋がかろうじて下がりまくる観客のテンションを上げようと奮闘するが、彼らが舞台からいなくなると、瞬間冷凍のごとく舞台の空気が冷める結果となる。
 岩松作品の持つセリフの面白さ、その独得の「間」がうまく、スパンスパンと繋がれていったときに生まれる舞台の「妙」が、まーったく再現されていなかった。

 ああもう! こんな青くさい演劇論みたいなこと書きたくないんだよなあ! しっかし辛かった。ああもうそれだけ。ラスト15分間、ずーーーーーーーーーっと「早く終わって……」と私は念じていた。はい、真面目に貶しすぎですね。分かってます。冗談入れてチャカしたい。ネガティブなことも面白く書きたい。でもねえ、思い返せば思い返すほどに、真剣に腹が立つ。自分でも嫌になるぐらい真面目に怒ってしまう。
 だってさあ、こーいうものを一ヶ月もやると、「舞台ってつまんなーい」と思う人を増産する結果になるでしょう。ものすごい文化破壊作業だと思う。この作品が、じゃなくて「舞台が」と思われちゃうのだ。人気者を集めて芝居を作ると集客はそりゃいいだろうが、「もう人生で舞台観なくてもいいや」と思う人を増やすことになりかねない。その業は、深い。
 第1部を「小泉今日子歌謡ショー」、そして第2部を「風間杜夫落語独演会」にしたほうが絶対良かったと思う。