「イケメン」寸考

ジュノンというネーミングも見事

 老化なのか。
 このワードが最近、グルグルと頭の中を回る。


 このイヤな現実を毎度私に突きつける番組……それが、「ウルルン滞在記」だ。
 私は、どーーーーーーーーしても久本雅美の隣にいる男子が覚えられない。毎度見るたび、
「誰この人」
 と思ってしまう。そして何秒かおいて、
「あ……レギュラーの人だ」
 と思い出す。「先週も先々週も、何十回も見ているじゃん!」といいうことに気づき、ガクーーッとしてしまうのだ。更にひどいことに、彼の顔を今ここで思い出そうとしてみたとする。うーん……やっぱ寸分の造作もイメージできゃしない。マジで軟化ってるんだろうか、私。


 なんていうか……最近テレビ見ていると「調度品」(これ死語だなー)のように、雑誌「JUNON」とかに出てそうな男子がソコカシコに配されている。もはや「進行アシスタント」は女の独占商売じゃないし(日本テレビ系「ラジかるっ!」がいい例)。そして番組の「華」(いるだけ・スマイル要員・「ヒューヒュー」とかいう人)という役割にも、男子ドンドン進出。この辺の人々が、私はどーしても覚えられないですね。覚える必要もないんだけど。


 覚える覚えないじゃなく……私には、「イケメン」という存在が十把ひとからげな「いきもの」に思えてしまうのだ。哺乳類ヒト科イケメン属ね。昔、なんかの本で動物学者だったか言っていたことを思い出す。
「公園に鳩がイッパイいるでしょう。あれもジックリ観察していると、全部違う顔をしているんです。見分けられるようになりますよ」
 そんな話をしていた……いや、別に差別的な意味じゃないんです。でも私には、無数の鳩とイケメンが同じように「見えて」しまうんだなあ。「個体差」はあっても、「個性差」が感じられない。
 うまく説明できないけど……その昔のワンレン・ボディコン全盛時代に、「ジュリアナねーちゃん」という人々がいた。実際ジュリアナ東京に行ってた・行ってないは関係なく、「ジュリアナっぽい」感じのする「いきもの」。「イケメン」という冠のつく男たちにも、一種それに似た「におい」を感じてしまう。ひとつの「流行(ファッション)」としての平坦化された存在。しかし、ジュリアナねーちゃん」は、ほぼ素人界だけに生息していてくれた。ファッションという意味での「流行」の正しい形だと思う。しかし「イケメンにーちゃん」たちは芸能界に多く生息している。ファッションが身を包むものではなく、存在そのものがファッションになってしまっている。そこが問題だ。


 私は知りたい。徳光和夫は「久本の隣の彼」の名前を書けるだろうか。いや、そもそも名前自体を覚えているだろうか。毎回マネージャーに「なんだっけあの子」と確認しているような気がする。



○イケメン追感・ひとりごと
スリードされそうな文章なんだが、イケメン族が「没個性」ということを書きたかった訳ではない。多分突き詰めると美少年論や美少女論、男女性比較論になってしまうと思う。男というものが美しくあること、華として在ることを要求されたとき、それは「非個性」というところに行き着いてしまうのだと思う。人形的愛玩の象徴というか、同質化というか。「小姓」というものの存在理由はひとつ、究極的な美少年のありようだし、男というイキモノは「それ」(愛玩する人々の要求)を受け入れられる愚かしいまでの「innocent」を生来的にもっている思う。女はいくら幼くても、そんな受動性・服従性を基本的にもたないイキモノだ。そう「演じる」ことになんらかのメリット、喜びを感じない限り、盲目的に他人の意思の人形になったりはしないだろう。


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