父とうなぎ

竹葉亭のうなぎ

 父親が東京に来た。
 聞けば同窓会だという。前日にいきなり「今日か明日、昼ごはんでも食べられますか」というメールが来た。お父さんは突然こういうことを言い出す。そんな人だったな、そう突然思い出した。父と離れて暮らしてもう、14年になる。家族なのに、離れて暮らしている。家族だから、いつかは離れて暮らす。どちらが本当の形なのだろうか。
 そんなことを思いながら、銀座線のホームを歩いた。漠然と「銀座に13:30」としか決めていない。週末の雑踏の中、あの人はどこにいるのだろう。

「お父さん、どこ」
「グッチの前にいる」
 あまりにも意外な答えに、一瞬言葉が詰まる。そんなところで、何をしているのか。それはどこ、グッチの場所が分からない私に、通りすがりで隣にあった、と答える父。そばに服部時計店が見えると、時代がかった答えが返ってきた。今の和光のことである。じゃあ、その隣の山野楽器まで来てよ。そうお願いしてしばらくたって、やっと会えた。追悼というわけでもないだろうが、先ごろ亡くなったジャズ・ピアニストのオスカー・ピーターソンがかかっていた。演奏していたのは、コール・ポーターの「It’s delovely」。楽しい曲調が、なかなか来ない父を待つイライラを慰めてくれた。


 お腹すいたよ、そう父は言った。
 それからお店を決めるのに、ひと悶着あった。殿様商売じゃないけれど、週末の銀座はどうにも「あごの上がった」商売をする店が、ままある。なんとはなしに入った店だったが、いわば「はずれクジ」だった。最近、大阪府の新しい、若い知事が「黙っていてもお金の入ってくる会社は、こんなものか」と公営放送のことを揶揄したことがあった。とめどなく客が入ってくるその和食屋さんに、私は同じことを思った。「あしらう」という言葉がふさわしい女の人の、ぞんざいな居直りに、私はどうしても耐えられなかった。
「出よう、お父さん」
 つとめて静かにいったつもりだったが、父は私の剣幕に驚いたようだった。お腹を空かしてるであろう父を、更に待たせてしまう申し訳なさに瞬時におそわれたが、もう、後戻りはできなかった。
 竹葉亭に行こう、そう誘う父に従って四丁目の交差点に戻る。あんな老舗、高くてもったいないと思ったが、父は鰻が好きなのだ。最初からここにすればよかった、でも混んでいるだろうなあ。そんな懸念を笑うかのように、広いいい席に仲居さんは通してくれた。とりあえず生ビールと、鴨ロース。三月も初旬とは思えないほどの陽気も手伝って、ビールが進む。
「八戸はなあ、専門店というものがないんだ。いい鰻は取れても、それを楽しみで食べる人はいない。高いからね。会社の経費で落とせるような県庁所在地、そういう役人や大会社の支店がなければ、そういう店はやっていけないんだよ。地方都市はね」
 そういいながら、白焼きをつまんでいる。香ばしい焼き加減に、ワサビの香り。父の喉ぼとけが大きく揺れて、生ビールが二杯目になった。このあと鰻丼だというのに――全部食べられるだろうか。無理だろうな。トイレにでも行ってくれれば、そのすきに仲居さんに頼めるのだけれど――目の前で「ご飯を半分にしてください」などと言おうものなら、強がるに決まっている。年寄り扱いされるのも嫌だろうが、全部たいらげられないのも、嫌だろう。
 

 そんな思いをよそに、父は先に来た丼のおしんこをつまみにして、2杯目のビールも飲み干した。確かに、細かく刻まれた柴漬けが、ほどよい塩加減でおいしかった。空のグラスをサッと見つけた仲居さんは弾むような笑顔で、おかわりよろししいですか、と尋ねた。
 結局、父はご飯を幾分残した。私は黙って丼を取って、自分のと替えた。そして3杯目のビールも「いただきます」といってすり替えた。こうなるだろうと思って、少し柴漬けを残しておいて、よかった。


 母に頼まれたバッグを買いにいく、といってその後松屋に行き、腹ごなしといって東京駅まで歩くという。61歳の父はまだ黒髪が多く残り、背(せい)もしっかりと伸びていた。多分新幹線で、よく眠れるだろう。岡田斗司夫の本を買って参考にし、何キロか痩せたという。お前は太ってるなあ、と笑って帰っていった。
2杯半も生ビールを昼から飲んだが、ちっとも飲んだ気がしない。飲みに誘えばすぐノッてくる友達に、メールをいれた。父が握らせてくれた万札で、懐もあたたかかった。


○お知らせ
ブログランキングに登録。 どうか1日1クリック↓を。
http://blog.with2.net/link.php?198815
ご意見などはこちら→hakuo-a@hotmail.co.jp