吉右衛門の伊右衛門

播磨屋!

 こういう伊右衛門があるとは―――。
お岩を騙す夫・伊右衛門は、歌舞伎の世界で「色悪」と呼ばれる役どころ。簡単にいって字のごとく、色男で悪いやつ。私がこれまで伊右衛門に抱いてきたイメージは、すっきり江戸前、「ようすのいい」美男子ながら、欲に流されやすく、目の前のことしか考えられない浅慮な男。どこか優柔不断で、すべて人のせいにしてしまうような男だった。だが、吉右衛門のつくりあげた伊右衛門はどうだろう。これ大きな悪の塊で、強欲この上ない。泥沼の如き、底のない悪人だった。

 理由がないのである。
妻を騙し、なぶり、自分の子供でさえも足蹴にするような男。名誉や金銭欲、若い女に目が眩む……お岩を邪魔にする理由付けは、いくらでも作れる役だ。精神的な弱さを強調する役作りもできるだろう。しかし、吉右衛門の演技に理由はない。ただ、悪いひとなのだ。根っからの、悪いやつ。
 この人はもう心根から腐りきっている――見るものに心からそう思わせる。どうしてこんな酷い男になったのか――そんな疑問すら抱かせない、その迫力。特に後家お弓を殺すシーンは秀逸だった。なんのためらいもなく、小柄な年増女を足蹴にし、川底へ突き落とす。小学生が消しゴムのカスを、机から払うかのような軽い仕草。
 今まで私は、伊右衛門というのは「悪と欲」に引きずり込まれていく、小さな人間と捉えていた。しかし今回の四谷怪談は、伊右衛門そのものが「悪」であり、すべてはこの悪のブラックホールに飲み込まれていく話に思えた。これはこれで一興。


○蛇足
ゆえに、のちのお岩・怨霊シーンの数々があまり立たなかった側面もある。伊右衛門、さほど怖がってなさそう。対抗できそう。福助は初役だから仕方ないものの、どうにも「出はけ」に気を取られている感があり、提灯やら戸板の仕掛けが効果的な恐ろしさを醸し出さず、見世物小屋っぽくなってしまって残念。そう、後半はすべて「手探り」の印象がぬぐえない結果だった。


○お知らせ
ブログランキングに登録。 どうか1日1クリック↓を。
http://blog.with2.net/link.php?198815
ご意見などはこちら→hakuoatsushi@yahoo.co.jp