毎日新聞の写真に思う

毎日新聞

 今日の毎日新聞、一面に子供の写真が載っている。子供の、死体の手のアップだ。四川の瓦礫の中、手だけが伸びている。ペンを握りしめたまま、その子は亡くなっていた。爪が黒く変色している。
 言葉もない。ただ、言葉にならない思いがわきあがる。何を写し撮りたかったのか。何を伝えたかったのか。このカメラマンは、この新聞社は。
 子供の死体の一部を、朝刊に大きく扱う――だめだ、どうしても理解できない。見識を疑ってしまう。

 被災の今を、事実を、いま四川が襲われている悲しみを伝える――そういう意図なのだろう。分かっちゃいる。分かってる。でも、やはり私はこの写真は不必要だと思った。
 必ず、この手の写真は「見世物的側面」をもってしまうものだもの。心から少年の死を悼み、涙する人が圧倒的に多いとは思う。そうあってほしいと願う。けれど、絶対に心無い見方をする人はいるのだ。そういう人がこの写真に、日本のどこかで反応している――そう思うだけで、やり切れない。
 この写真を選ぶときに、ほんのちょっとでも「いやらしい」気持ちはなかっただろうか。「センセーショナル」という言葉を思わなかっただろうか。またこの写真は、「手だけ」というところが、(ものすごく嫌な言い方をあえてするが)、うまい。ほどよい。死体そのものではキツすぎる。瓦礫だけでは弱い。そういう「計算」はまったくなかっただろうか。「クオリティ・ペーパー」などという言葉を出すつもりもないけれど、新聞が週刊誌の領分を冒すことはない。
「悲劇」を伝えることで、世論を高め、再発を防ぐムーブメントをつくり、また原因を明らかにし厳罰と反省を促すという報道なら、まだ分からなくもない。JR福知山線の報道写真などは、そういった例に入るだろう。だが、彼らは自然災害、地震で亡くなったのだ―――! 
 そっとしておいてあげればいいじゃないか。「鎮魂」の気持ちが圧倒的に欠けている。刻々と救援作業、号泣する家族を映し出し、日本の茶の間に惨状を「みせる」ことの意味が、どうしても分からない。
 私は最近どうにも、連日の世界の悲劇と国内の悲劇を伝える「写真と映像」に、違和感を感じ続けてしまう。ニュースは事実の伝達であるべきだとは思うが、写真と文章の「セレクト」に、伝え手の「品」というものがにじみ出る。そこが、いのちなのだ。そこが圧倒的に欠けているものが多すぎる。
 四川の死者は、今日で3万人以上になった。


○追記
6月15日の段階で、死者は7万人以上に。


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