サンローラン、逝く

イヴ・サンローラン

 1955年(昭和30年)、当時フランス「ヴォーグ」の編集者だったミッシェル・ド・ブルンホフの前に、ひとりの少年が現れる。彼は一昨年にも持ち込みにやって来た、若きデザイナーの卵だった。そのとき彼が見せたデザイン画は素晴らしいものだったが、「描くだけでなく、カットや縫製も学ばなければ駄目だよ」と諭し、オートクチュールの学校に紹介したのだった。
「デザインしたくてたまらず、50枚のクロッキーを描き上げました。見て下さい」
 そのクロッキーを開いて、ミッシェルは驚嘆した。彼は後にこう書いている。
「驚くべきことだが、50枚のうち少なくとも30枚はディオールのサインを入れても通用するものだった。これまでの私の生涯の中で、これ程モードの才能を持つ人物に出会ったことはない」
 天才譚というものは、独得の痛快さを必ず持ち合わせている。しかし、これほどまでにドラマティックなものも少ないのではないか。ときに、イヴ・サンローラン19歳の年であった。感動したブルンホフは、すぐさまこの少年をディオールに紹介、即採用となる。
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 二匹の象のあいだに、女がひとり。黒いタイトなドレスに、長いシルクらしき布をウェストに巻きつけ、片方の手を象の鼻にかけているその姿。モノクロながら、強烈な印象を残すリチャード・アヴェドンのファッション・フォト。モード・ピクチャーの傑作と名高い一枚だが、このモデルが着ている服こそ、クリスチャン・ディオールのメゾンに入ったサンローランの初作品なのだ。
 はじめて――信じられない。そしてはじめてにして、こんなファッション・フォトのマスターピースのような作品が生まれてしまう。ブルンホフとの出会いに始まり、アヴェドンという写真家との出会い、そして2年後のディオールの急逝……天才が世に出るべく、大きな力に押される潮流のようなものを感じずにはおれない。
 と、サンローランの訃報に接して、つらつらと色んなことを思い返してしまった。1日未明、ディオール名づけたところの「プチ・プランス(小公子)」、パリに死す。享年71歳。去年に脳腫瘍を診断されていたらしい。ビジュアリストである彼が、長患いしなかったのはせめてもの救いじゃないだろうか。


「僕はエレガンスに身を捧げる世界とジェネレーションに属している」
1977年、サンローランはこういい切っている。そしてさらには、こうも語っている。
「S・フィッツジェラルドのように、死に至る錯乱を私は愛する。デカダンスは私を魅了する。それは新しい世界を予告する。死んでゆくものと生まれてくるもの。この双方の相克に挟まれた社会を、観察することの何という素晴らしさ――」(1982年)
 65歳で引退してからの彼は、社会をどんな目で見つめていたのだろう。

○付記
 カトリーヌ・ドヌーヴとの長きにわたるコラボレーションはつとに有名。1967年のブニュエル作品『昼顔』が映画衣装を担当した初めての作品。高校時代にビデオで観たが、彼女の圧倒的な美しさ、そして全編に流れるアイロニックなトーン、セクシャルなるものに対する、どこか冷めたユーモアと距離感に私は圧倒的に魅了された。原作と違う味つけのラストにも痺れた。
 上の写真のうしろにも写っているが、不思議と彼のつくる服は黒人がよく似合った。スーパーモデル・ブームのちょっと前、ソニアという美しい黒人のモデルがいたが、ことに彼女が着るサンローランは美しかった。今何をしているのだろう。


○行状記
晴れた。嬉しい……このところずっと雨、2日に入梅だったという。早い……去年より6日早いそう。お昼に中目黒の「パップハウス」で冷麺のランチ。その後とあるリサーチで吉祥寺に行く。ラーメン「一二三」に行くのを忘れた。悔しい……。


○お知らせ
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