追悼・緒形拳

合掌

 緒形拳が亡くなった。亡くなってしまった。
 テレビをつけた途端に、訃報の知らせ。「えーっ!」と思わずひとり声を上げた。悪い冗談にしか思えない。最近、地下鉄の駅のあちこちに新ドラマのポスターが貼られていた。その中に、相も変わらずの元気そうな写真が載っていた。だから、にわかに信じがたい。でも、画面の片隅に浮かぶ「急死」の文字……ああ、本当なんだなあ。
 亡くなる直前まで、このように露出が多く、かつ「精気」を漂わせた人も稀有だろう。だから、いまだ信じられない気持ちがどこかにある。観るたび「元気だなあ!」と思っていた。「老い」が忍び寄れたのは唯一、「髪の色素」だけだったんじゃないだろうか。
 などと、さも熱心なファンのように書いてますが……いや、全然そんな風には語れない。話題の舞台だったシアターコクーンでの「白野」(2006年10月初演、2007年11月再演)も見逃している。観ようと思えば観れたのだ。何度この手の後悔を繰返すのだろう。

 真っ先に思い出されたのは、『砂の器』だった。
 自分でも意外だった。緒形拳の演じてきた強烈な悪、アク……人間のエゴや原罪、欲望や屈折といったもの。『復讐するは我にあり』『鬼畜』『楢山節考』などなど、より印象的な名演、力演は数多い。けれど、いの一番にフッとその姿が浮かんだのは、彼が演じた「正」だった。
 あの陰惨なドラマの中で、白い官憲姿の緒形拳は圧倒的に輝いていた。義務感ではなく、人間としての「正道」を嫌らしくなく演じ……というよりもより自然に、示していた。にじみ出るような人格としての慈愛があった。そう、正と負、善と悪、その両方を演じられる役者だった。とかくネガティブ・キャラクターの鮮烈な印象が強いけれど、どちらもきちんと演じられる「まっとうさ」が、彼の特質だと思う。光あってこその闇――そこを真剣に理解している役者だったと思う。
(と、ここで逃げを打つわけではないが……なんせ10代前半に観たきりなので不安になってきた。見直して近日訂正するかもです。申し訳ない)

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 そしてもうひとつ。「受けの芝居」も出来る人だった。ここも偉大な点だ。
 『鬼畜』(1978 野村芳太郎監督)という作品は、前半が女のドラマ、後半が男の芝居になる。緒形、岩下志麻の夫婦、愛人役に小川真由美(現在の表記は眞由美)。小川と緒形の間には、子供が三人もいる。子供の産めない妻と愛人の罵り合い、双方のエゴの爆発が前半のクライマックスだ。
 前半の緒形拳は、ほとんど何もしない。ただ、うろたえるだけだ。この芝居が、実にいい。「何もしない」という演技もあるのだ。何もしないが、女たちの罵倒とにらみ合いを受けて、心中の波乱がゾクゾクと伝わってくる。おびえきった子犬のような緊張感。女たちの「ドラマ」に震え上がっている、腰砕けになっているというのが、後半で、効く。
 小津安二郎の言葉に、「映画はアクシデントではない、ドラマだ」というのがある。この言葉は、本作に実に当てはまると私は思う。

 女たちは、アクシデント。男は、ドラマだ。
 女たちは「鬼畜」になりきれる強さがある。
 しかし男は、そうなりきれない弱さがある。だから、悩む。己が心に生まれている「鬼」に、男は飲み込まれそうになって、もがく。苦しむ。けれど、流される。
「こんな子供押し付けられて、金もないのに、どうするんだよっ!」
 捨ててしまえ、殺せ――妻が囁く。震え上がった心が後押しされて、フラフラと愚考へ向かってく。
 女ほど自己中心的にもなれず、さりとて克己心もない。経済的に立ち行かないから、わが子を殺してしまおうとする――そんな自分を、恐れる、おののく、その気持ち。ここが、リアルだった。濃密なドラマを創り上げていた。ここのドラマがリアルだったからこそ、観るものは「あの男の中にいる『鬼』は、私の中にも居るのかもしれない」と感じるのだ。
 

 新国劇の後輩、五大路子がテレビで語っていた。
島田正吾先生が亡くなった歳を思ったら……まだ20年もあるんですよ」
 本当にその通りだと思う。
 緒形拳、享年71歳。ただ、素晴らしい演技をありがとうございましたとしか、ない。どうぞ、安らかに――。

○付記

 『復讐するは我にあり』より。この「眼」!



 こんなのを見つけた。黒縁の眼鏡の似合う人だった。

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