ザレゴト女優論、そして常盤貴子のこと

映画『鬼畜』より

 昨日のブログで、小川眞由美岩下志麻のことを書いていて、ひとつ思ったことがある。それを書き留めておきたい。(いい加減しつこいと思われるでしょうが、今日でホントに最後にしますので、どうぞ許してやってください)
 私は、女優というのは「職業名」ではないと思っている。今から書くことが、私なりの、演技者というものの「呼称」に対するセオリーだ。

 「俳優」は職業名であり、自称してよいもの。
 「女優」というのは他者が賞賛と共に贈る称号であり、賞賛を含まない場合は蔑称。
 「役者」というのは、ひとりで舞台を「もたせ」られる俳優に周囲が贈る尊称。
 
 だと思っている。私が演技を生業(なりわい)とする人々を見極めるポイントは、ここにある。


○客観性と自己主張の見事な結実
 と、いうわけで常盤貴子である。先の様なことを考えつつ、今発売中の「週刊朝日」を読んでいたら「目キキ&耳キキ」というコーナーで彼女の小さなインタビューが載っていた。
 なんでも彼女、自分の仕事を「女優」と言うのが、まだ抵抗を感じているという。
「昔の映画を見ると、当時の女優さんたちの存在感に打ちのめされます。あんな方々と比べたら、まだ自分のことを女優だなんて思えない」
 うーん……文面どおり受け取らせてもらおう。立派だ、素晴らしい!
 こういう謙虚さの裏には、いや、裏という言葉は適切でないかもしれない。謙虚さというのは、確固たる自負がなければ生まれないものだ。私は彼女を映画『魂萌え!』の演技を見て以来、確かな実力者として認識していた。うーん……こんな硬い言い方じゃ伝わらない、「おーっ、やるなぁ!」と目からウロコだったのだ。
 主演の風吹ジュンの娘役で、さして「しどころ」のない役だった。素直ないいお嬢さんという役だったんだけど、これが実に主役を邪魔せず、それでいて素直な存在感が光る、サラリとしたいい芝居だった。小津安二郎の映画における「桑野みゆき」みたいだった。女優というのは、ものすごい「エゴイズム」と共に、「本能的な客観性」がなければ、ダメだ。彼女には、それがあるような気がする。
 私は、彼女と松雪泰子に「映画女優」という絶滅してしまった「種族」、そのほのかな生き残りを感じている。


○追記
週刊朝日」、林真理子対談のゲストが「松本隆」なんだが、これは必読! 素晴らしい発言があちこちに。


☆毎週金曜更新・こちらもよろしく→「私の渡世・食・日記

○お知らせ
ブログランキングに登録。 どうか1日1クリック↓を。
http://blog.with2.net/link.php?198815
ご意見などはこちら→hakuoatsushi@yahoo.co.jp