名人、逝く――竹本朝重先生のこと

竹本朝重

 私は20代前半の頃1年ほど、国立劇場歌舞伎俳優養成所、なるところに通っていた。
 歌舞伎にハマってしまい、ムコーミズに飛び込んでしまったのだ。いろいろあって2年満了のところを1年で辞めるんだけれども、その1年間は伝統芸能にドーップリと漬かる毎日だった。
 朝来ると、まず着物に着替えて白足袋を履く。そして日がな歌舞伎の演目のお稽古。
「何が何して何とやら……」七五調のセリフを諳んじては繰返す。さらには長唄、三味線、お琴にお茶、さらには大学の先生による歌舞伎史の講義(近藤瑞男先生でいらした)……。
 その中の授業のひとつに、義太夫があった。その先生が、竹本朝重先生だった。

 私は169センチと男にしてはまあ、高いほうじゃない。その私と比べても、朝重先生は……半分もないように思えたというか、とにかく小柄でいらした。
 先生方の控え室から研修所まで、お迎え・お送りをする「お付き」というのが日直の役目のひとつだった。普通の男が歩いたら、そう2〜3分のところを、朝重先生はゆうに倍はかかっただろうか。お歩みが遅いというよりも……泰然としてらっしゃるというか、およそ足幅を広く歩く、なんていうことは「はしたない」というような感じの小股ぶりで、ゆっくりと、しっかりと歩かれる。
 そんな人柄が隅々から感じられた。いつも髪、いや御髪(おぐし)は小ぶりな束髪(そくはつ)に結われてらした。着物も、地味だけれど品のいいものをキュッと着付けてらした。

 
 そういう品のいい、どちらかというと地味な感じの……(本当に朝重先生、すいません)おばあさんが、ひとたび三味線を持ってお稽古に入ると人が変わる。
 「芸の力か!」
 まざまざと、そう思った初めての瞬間だった。オーバーに聞こえるかもしれないが、そうとしかいいようがない。最初に習ったのが「卅三間堂棟由来」(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)、確か木遣音頭のくだりだったと思うが……まあーーーーーーーーーーーーーー驚いた。たまげた。ビックラこいた。
 義太夫の譜、ってですね(床本といいますが)、なんだか活きのいい鰻がのた打ち回ってるような感じなんですよ。

(参考資料)

 読めやしない。


 それがなんていうか……朝重先生がひとたび語りだすと、なんとなーく、分かるんだこれが! どーしてか分からないんだけど、「この語りにはこの文字じゃないと絶対にダメなんだ!」ということが、よーく分かる。
 文字に込められている義太夫狂言の面白さ――ストーリーの持つ悲しみ、怒り、喜び、そういったものが、語りと同時に文字からムクムクと立ち昇っていく面白さ、すごさ。


 朝重先生の語りは何かが「降りて」いるようだった。登場人物それぞれの語り分け、声量、迫力……もう語り尽くされていると思うが、素晴らしいの一言で、圧倒された。
 何よりも、情の細かい濃密な人間の感情が抜群だった。『仮名手本忠臣蔵』で判官を師直が「鮒侍め」と罵倒するそのくだりなど、思い出すだけでも師直がああ、憎たらしくてしょうがない! そして聞くうち、判官が可哀相で、いたわしく思えて仕方なくなってしまうんだこれが。
 そんなことを書いたらキリがない。さぞかし芸に厳しい、怖い方かと思いきや、優しい方だった。軽い冗談もたまにおっしゃる素敵な人だった。
 義太夫の面白さを教えてくださってありがとうございました。あまりに早い訃報にショックでした。
 もう一度お聴きしたかった。さようなら、朝重先生。


○記録
竹本朝重さん(たけもと・あさじゅう、本名・西川敏子=にしかわ・としこ=女流義太夫)3日、肝臓がんで死去。76歳。告別式は近親者で済ませた。喪主は妹、礼子さん。
 1961年、二代目朝重を襲名。62年から朝重リサイタルを始め、古典、新作、物語などに意欲的に取り組んだ。83年、義太夫協会副会長に就任。96年紫綬褒章
(2008年11月12日 読売新聞より)


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