落語のことなんか生意気に思ってみたり
人間、顔じゃない。けれど、落語家だけは違う。落語家は、「顔」だ。
私は落語を聞くとき、話の内容うんぬんよりも、顔を観てしまう。落語家の顔に見入ってしまう。うん、落語は顔芸じゃないかなあ、とすら思っている。
いや……違うな。正確にいうと、修行を積んだ落語家の「顔」が、好きなのだ。そういう人々が「噺」をしているときの顔が、好きなんだ。
「いいなぁ」「好きだなぁ」と思わせる落語家って、噺が進むうちに段々と「顔」が変わってくる。舞台に現れたときの顔と、噺の人物になった瞬間で、明らかに「顔」が違う。それは、役者が「役に入る」のともまた違う面白さ。落語の修業って、すべて「顔」つくりあげる作業なんじゃないか、とまで思ってしまう。細かいイキや仕方のあれこれが、「顔」をつくっているような気がするのだ。
唐突な例えに聞こえるでしょうが……私、いい落語を聴いていると「にっぽん昔ばなし」のキャラクターがおのずとカブってくるんですね、その落語家の顔に。それは噺の内容に関わらず。
この人は「かさこじぞう」のおじいさんみたいだなあ。やらせてみたいなあ。あの人は「こぶとりじいさん」の悪いじいさんに見えてきた……とか、そんなイマジネーション。
超・独断と偏見ですが、日本昔話の持つポエジー、素っ頓狂さ、そして残酷性。この3つを心底に持っているかどうかが、落語家の格を決めるような気がする。冗談抜きで。
だって「かさこじぞう」一話を面白く聴かせたら、一流の落語家だと思うもの。状況はシュールなんだよね。夜中に火が消えたら凍死してしまうかもしれない極寒、極貧の老夫婦。けれど、物語のトーンは悲惨いっぽうになってはいけない。そんな貧乏なのに傘をくれてやってしまう主人公の心根、そのリアリティ。そして地蔵が訪ねて来ちゃうファンタジー。地蔵はどんなふうに喋るのだろうか。それを受けるおじいさんは? ああ、一流の落語家で聴いてみたい!
などと話が遅々として進まない。何を門外漢が、半可通だねと怒らないでくださいな。来月公開のドキュメント『小三治』と、先日聴いてきた桂三枝の新作落語のことを書こうと思っていたら、ツラツラ最近感じた落語のことを書きとめておきたくなった。
また明日!
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