国立博物館へ・2 〜阿修羅編

6月7日まで

 やっぱり、いた。
現在開催中の『国宝 阿修羅展』、先週の金曜にいってきたんですけれども、案の定歌ってるかたがいらっしゃいました。もう分かる方は分かりますね。
「チャーチャーチャッ! チャーチャーチャッ! チャッチャ〜ラ チャラララ〜……」 
 はい、ドラマ『阿修羅のごとく』(1979)のテーマソング。お昼の2時ぐらいで入場20分の行列だったんだけれども、前の列に並んでるオジサンが楽しそうに口ずさんでいる。
「あれ思い出すよなあ、ほら、あれ」とかなんとかいいつつハミング3分の1。奥さんに「やめなさいよ」とかいわれつつ。どうでもいいがあの方、池辺晋一郎に似ていた。池辺のおかげで私も阿修羅さまにご対面するまでずーっと脳内「チャーチャーチャッ!」流れっぱなし。どうしてくれよう。ちなみにこれです。

トルコの軍楽なんだそうで、「ジェッディン・デデン」というタイトルだそう。ふうん。
 さて本題!


 パッと展示の部屋に入った瞬間……心象に浮かんだ文字がある。うーーーーーん……間違いなく「ええェ本当(笑)?」と嘲笑されるだろうなあ。我ながら「受け売り」っぽいなあと思うけれど、本当に心の中に浮かんだから、書く。
「理」
 という字がパッと、太く浮かんだ。その6本の手が伸びているさまが、世のなかの「ことわり」というものの具現に思えてならない。どうしてそう思ったのか、あれこれ帰り道に考えてみた。しかし意味づけを考えれば考えるほど、意味がなく、浅はかなことに思えてしまう。しかしそれでは記録にならない。感じたままをつらつらと。


 正面からみて真ん中の手、あのフワッと、異様なまでに広く、そしてしなやかな腕がもっとも印象的。見ていると、すごく大きなものに抱擁されるかのような恍惚感がもたらされる。資料をみて驚いたが、阿修羅像は153センチしかないのだそうだ。信じられない。この手は「悠」という文字を思わす。
 その泰然としたニュアンスと対照的に、上の手は何か大きなものを支えているかのようだ。肘から手首までの筋肉の張りよう、そこにみなぎる力。その力強さ、鋭い射光のようなイメージが心に植わる。
 そして、祈り。阿修羅像の魅力は、その正面表情と祈るポーズとのアンバランスにあるように思う。人が祈るとき、あーいう表情は中々するもんではないだろう。求道者の厳しさのようでもあり、衆生に「祈れ」と黙して語っているようでもあり、何か罪を見透かされているようでもあり。
 理(ことわり)。すぐれた仏像はそれだけで自ずと仏性を醸す。阿修羅は仏像ではないけれど、真(まこと)のものであった。まことの美、それすなわち真理を感じさせる。真理とは仏性に他ならない。自分では到底到達できない境地をそこはかとでも感じさせるというのが、宗教芸術の醍醐味なのだ。などと分かりもしないことをもっともらしく……失礼致しました。
 阿修羅像はこれまで何度か火事にあっているんだそうだ。そのたびお坊さんだろうが、抱えられて避難(?)したのだとか。こんなすごいものを脇に抱えた人は、どんな気分だったのだろう。


○追記
 阿修羅とは、「八部衆」というチームの一員で、お釈迦様に仕えて仏教を守る守護神の一人なんだそうです(興福寺国宝館長・金子啓明氏の解説より)。
 この八部衆の像が今回みんな見れるんですね。阿修羅のひとつ前の部屋、入るなりズラーッと並んでるんですが……これがまあ、やったらカッコいいんだ! 恐れ多さとかスッ飛ばして、純粋にカーーーッコいい。戦隊もののヒーローを見るイメージ、ってこっちが先か。あのへんの原型ってこのあたりなんでしょうね。中でも弱々しい表情の「沙羯羅」が印象的。こういうキャラをひとり入れてるあたりがさすがお釈迦様。
 しかし本当に写真で見るのと印象が違う。全然違う。仏さま関連はあまりフォトジェニックではないようだ。本物の威厳と美の万分の一も写真では感じられない。ぜひぜひ八部衆、「まなこ」で触れてみてほしい。


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