清元のこと〜五月大歌舞伎『夕立』から
「見るたびに 黒く鳴神 延寿太夫」
しっかし、どんどん「パナマ人」みたいになってきますね……高輪の家元・清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう)。
オーバーじゃなく一瞬、暗い舞台で顔がよく分からなかったほど。声はすれども姿は見えず。
今日はちょっとマニアックな話題ですが、どうぞおつき合い下さい。五月歌舞伎座夜の部、舞踊『夕立』の鑑賞記。菊五郎と時蔵による一幕(ひとまく)ですが………直球で書かせてもらう。
いやーーーーーー清元がよくなかった。それがまぁ悔しくて、オチャラケずにはいられないのだ!
これ、舞踊劇なんですね。歌舞伎役者が踊って、歌って演奏するのが「地方(じかた)」さん。長唄、清元、常盤津、義太夫なんてのは、その地方の1ジャンル。清元の場合、三味線=ミュージシャン、太夫(たゆう)=ヴォーカル、と思っていただければ。太夫さんは、踊っているふたりの状況やら、心模様なんかを「節で語る」わけです。
○踊りのあらすじ
この踊り、歌舞伎らしくメチャクチャな内容で、艶っぽくて、面白い話なんですよ。
1:大奥の奥女中が輿にのって帰り道、夕立にあう。
2:そこに轟く大かみなり! 従者は逃げ出し、奥女中は気絶
3:そこに通りかかったハンサムなやくざ者、いい女だなあと犯しちゃう
4:奥女中、最初は抵抗するものの、テゴメにあったら一目ぼれ
5:「もう屋敷へなんか帰らないわ、連れてって」
と、ふたり仲良く道行にて幕。という話。
○半可通の戯言・小言
この手の舞踊の魅力って、「役者のニン:踊りの実力:地方の力」この配分が「3:2:5」だと思ってるんですね、私は。そのぐらい地方が大事。踊りを観つつ、音楽に酔うのが醍醐味なんだもの。浄瑠璃(=まあ音楽パートと思ってください)が良くてはじめて、役者の表現するものが浮かび上がってくるというもの。
うーーん……この『夕立』の歌詞って、直球でエロティックな比喩に溢れているんですよ。うまい太夫の語り(歌うことを清元の場合こういいます)に、役者の振りがフッと重なると、えもいわれぬ妙味が舞台に生まれるんだけどねえ。
延寿太夫はじめ、なんだかみなさん「ヴィックスドロップ」もしくは「酸素スプレー」でも差し上げたくなるような節回しで……いいとこになると「ブツッ」と節が切れちゃって、舞台に集中できないんだこれが。ああ、色気も素っ気もない!
清元って高音部を多用する節回しが特徴なんだけれども、いわゆる「アタリどこ」(ハイ・キーってこと)がちっとも堪能できず。多分三枚目(これはそのまま、サードってこと)の若き清美太夫はもっと出るはず。彼にドンドン語らせればいーじゃないか、などとせん無いこととツラツラと。お好きな方には、失礼致しました。
でもねえ、これを清元と思わないでほしい。もっと纏綿(てんめん)たる情緒あふれる、美しくドラマティックな音楽なんです。
○踊り自体のこと
小猿七之助に尾上菊五郎。
男ぶりもセリフもさすがに素敵なんだけれども、「尻っぱしょり」の役で一番大事なのは、『かさね』の与右衛門しかり、その「脚」だ。
女の人生を狂わせるほどの「粋な御方」と詞章にもあるが、スッキリとした「脚」がその何よりの証左でなければいけない。菊五郎、なんだか「ミシュランマン」の脚のよう。役者は腹は出てもいいが、脚だけはスーッとしておいて頂きたい。
奥女中滝川、中村時蔵。
踊りが端正で、丁寧で。いかにも大奥の礼儀仕込といった、いい意味での硬さと品があるのが何より。後(のち)のくだけ方もいい。ただ、犯されたあと小屋から出てくるとき、「帯しろはだか」で出てくるのは、らしくないと私は思う。
○追記
清元に興味のある方は、清元美寿太夫というかたを一度ゼヒ聴いてほしい。この方こそ、清元の艶を堪能させてくれる最後の人だ。
☆おヒマなら見てよね・こちらもよろしく→「白央篤司の独酌日記」
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