「気」を見せてくれよ福助!〜5月演舞場より

私の席から見た定式幕

 あは、あはは……。
 プシューッとガスが抜けるかのように、力なく笑ってしまいました。演舞場5月大歌舞伎、昼の部の舞踊・長唄『近江のお兼』が終ったときの、率直な感想。
 いやはやまったく、なんちゅうテキトーーーーーーーーーな踊りだろうか。


 いかんよ。
 こんな踊りでも歌舞伎初体験の人たちは、
「これが歌舞伎の踊りなんだー」
「日本舞踊ってこーいうものなのだー」
 そう思ってしまうのだ。そんな第一印象を持ってしまうのだ。
 許せない。
「役者の踊り」、なんていわせない。


○役者の「気」――歌舞伎の醍醐味


 踊りも芝居も、「気」を入れて舞台に立つことが、歌舞伎の絶対的な第一条件だと思っている。
 そう、私は歌舞伎に「気」を観にいくのだ。
 芸が未熟だとしても、舞台というものに対する敬虔な「気」持ちがあれば、それはいい役者だ。何十年というベテランでも、感動的なまでに、舞台に対して誠実な、無垢な「スピリット」を持つ役者もいる。そういった目に見えない「気」が感じられることが、歌舞伎の面白さのひとつだ。役者の「気」が、歌舞伎の凄さの根幹にあると私は思っている。
 それがどうしたことか。中村福助の踊りの「気」のなさは。こんな腑抜けな踊りを「板」にのせていーーーもんだろうか!?
「役者にきちんとした踊り求めるほうが間違いだよー」
 はい、「通」のみなさんはそう仰るでしょう。しかし、それ以前の問題だ。


○「顔」で踊るべからず


 長唄『心猿』から引き抜き『近江のお兼』、まず猿のかぶりものをして踊るイントロの『心猿』、もうやる気がないのが明らか。猿芝居という言葉があるが、まさかそれを気取った壮大なシャレか!? そして、『お兼』。
 このひとは「体」でなく「顔」で躍り過ぎる。ニマーッと満面の笑みで決まるのだが、踊りというものは感情を体で表現するものだ。笑みがこぼれるのなら、「嬉しい」とか「楽しい」というその気持ちを体で表さなければ、嘘だ。
 何度もこの「ニマーッ」がリフレインされて、品のないこと甚だしい。「しなをつくる」というのは、普段は品よくしているものから、フッと色気がこぼれる、ということで効果的な所作になる。
 それに大体、娘らしい表現と年増な表現が変に混ざる。日舞独得の動作である「おすべり」の品の悪いこと。ぞろっぺえで、おすべりをするごとに襦袢がはだけていくようなおすべり。


○あなたはもっとできる人でしょう?


 なんといっても疑問なのは、なぜサラシをキチンと扱えないのにこの踊りを引き受けたのか!? 
 彼は知っているはずだ。サラシは先を舞台につけてはいけないことを。実際、全然舞台につけないというのは不可能だけれど、そういった心構えで踊ると踊らないのとでは出来が違う。このひとはそれを知っている上で、投げている。「いいのーついたってー」という軽薄さが踊りから漂う。技芸というものをなんと心得ているのか。
 悲しい。私はこの人の『道成寺』にかつて感動したことがある。コーフンしたことがある。歌右衛門が何度か彼にかぶって、鳥肌が立つような思いをさせてもらったことがあるというのに。
 福助さん、そういう踊りを毎回、どんな演目でも感じさせてください。「投げる」役者にはならないで。



○付記
キリに落語の劇化である『らくだ』。はじめて観る。これ、贅沢ですが菊吉で観てみたい。大物二人がくっだらないことを専心してやっている姿を、観たい。もちろん酒乱を播磨屋、チンピラを音羽屋で。




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