勝手にヤサブロー日記 『出世食べ物』

 (ヤサブロー日記の起こりはこちらまで)


 昨日の日記から連想が続く。


 お好み焼きは、「どんどん焼き」と呼ばれていた屋台の食べもの時代、あまりイメージのよろしくないものだったらしい。
 池田弥三郎さんは
「思い出してもはずかしい話だが」
 と前置きしてから、どんどん焼きが好きだったことを吐露されている。その調子で、「どんどん焼きお好み焼き」と名が変わり人気食になったことを評して


「たべ物にはそうした下克上があるようだ。本来、屋台のものだった江戸前のてんぷらが。一コース三千円などという高級料理に出世したり、(中略)みつ豆などももとは横丁へ売りに来たもので、東京の下町でも、商家ややとい人たちの食べ物で、『奥』の人々は口にしなかったし、スイカだって、ひどいことを言われたもので、あれは車夫馬丁のたべものだ、ということになっていた」(『私の食物誌』池田弥三郎 6月21日)


 これは、昭和50年代前半に書かれた文章なんですね。当時の大学卒初任給が9万ぐらい。「三千円」も7、8千円になるだろうか。馬丁(ばてい)は馬の世話をする人。「やとい人」という言い方に時代を感じる。
 そう、ついこの間まで、食べものにも「階級」があったのだ。味うんぬんではなく、「そういうものは私たちの食べるものじゃない」「こういうものは、○○の食べるもの」という、見えざる決まりがあったのだ。
 親しくさせていただいてる方で、戦前生まれの貿易商の令嬢だった方を存じ上げている。彼女は今でも決してホルモンの類いを口にしない。フレンチでトリッパ(牛の第2胃袋、ハチノス)が出てきたときは肝を冷やした。なんとか誤魔化したけれど、あれがホルモンだと知ったら、彼女はどんな顔をされるだろう。
 25年前ぐらいまでは「焼酎」というと「労働者の飲むもの」という、今思えば実に差別的なことを、日常的に多くの人が口にしていた。私も子供の頃、何度か聞いた。
 おいしい芋焼酎をはじめ、九州の本格焼酎の数々、そして東北から北陸の銘酒、さらにはワインやウィスキーを手頃に飲めるなんて、ついこの四半世紀のことなのだ。


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