歌舞伎の妙〜昨日の日経から

日本一元気な70代

 昨日の日経新聞文化面で、作家の富岡多恵子さんが
坂田藤十郎襲名公演のことから歌舞伎にふれて
「芝居の楽しみ」と題したエッセイが面白かった。
日本演劇史における大名跡坂田藤十郎が、元禄から平成の壁を超えて
突如現れてくる歌舞伎の不思議、大阪出身の彼女が思う
京都における「顔見世」という興行の持つ独特の雰囲気など、
「ごもっとも」と言う感じで端的にまとめられていた。
そんな中でも「うーん、そうだそうだ!」と頷いてしまったのは、
「(わたしは)そのときにしか聴けぬ役者の声を聴き、姿を見るのを
楽しみに劇場へ足を運んでいく」というくだりだ。
ここだけ抜書きすると至極当たり前のようなことだが、
最近、文楽が世界無形文化財になってからというものの、
「字幕」付きの公演が増えたという。歌舞伎も世界無形文化財になったので、
いずれはそうなるのかもという危惧をふまえ、
字幕やら筋書きやら文楽の床本を読みながら芝居が進むのは
「あまりにももったいない」と富岡さんは嘆く。
そうだそうだ、本当にその通り!
歌舞伎や文楽というものは伝統芸能ゆえに
はじめて鑑賞する場合、「お勉強」感が濃厚になってしまいがちのものだ。
「せっかく観にきたのだからわからなければもったいない」という、
気持になってしまうのもよくわかる。事実、私もそうだった。
しかしそれによって、一番美味しいところを
見逃してしまうことって確かに多いんだよなあ。
「芝居のパターンはだいたい決まっている」
「観ているうちにエエ者とワル者の区別はすぐにつく」
なので鷹揚にかまえて観た方がいいと富岡さんはおっしゃる。
(とはいえ、難解で一部抜粋みたいな芝居も確かに多いのだけれど)
「細部がわかっても、面白いかどうかはわからない」というくだりは
「さすが!」と思った。歌舞伎は特にそういった「トリビア・おたく」を生み出しがちな芸能だ。
それって、歌舞伎の本質から最も外れた「無粋」な行為だと私は思う。


●追記
ここからはもっとマニアックな古典芸能の話なので
好きな人だけ読んで頂ければ…なんですが、
最近東京・三宅坂国立劇場の日本舞踊公演でもよく長唄や清元なりの字幕がつく。
それはそれで大変結構だと思うが、
はっきりいって「いらない」と思う。何を狙って字幕をつけるのか。
私は古典舞踊における歌の文句なんて「意味不明」と思って差し支えないと思う。
坂東玉三郎はかつて長唄の文句は「美しき寝言」と看破されていた。うーんこれだけで天才。
きっちりした現代的な起承転結のあるもんじゃないんだからさー。
(といきなり言葉乱れる)大体古典歌舞音曲の多くは
「素っ頓狂な何でもありの楽しいもの」と言っていいんじゃないか!?
そういうコンセンサスが鑑賞側にできるには、確かにある程度の時間を要すると思うが。
私は歌舞伎を観初めてまだ10年ぐらいだが、そういう気持になるまで5年ぐらいかかった。
それは古典の歌舞音曲を聴くに当たって、「お勉強」という気持がやっぱりあったからだと思う。
実際はそんなこと全然ないわけでね、昔は「河原乞食」が芸者や裕福庶民相手に
踊ってたんだもの。「うけりゃいい」んだもの。そう気づいてからは楽になった。
今の人が松浦亜矢やDef Techの歌詞をいちいち「これはどういう意味か」なんて
気にしないのと一緒だと思う。
(しかしそう考えると後世「桃色の片思いとはどんな片思いなのか」などと
研究する学者が出てくるのだろうか。うーん読んでみたいような)


●今日の一食
すし処 高菜やの「高菜巻き寿司」

実はこの三連休親が現在住んでいる青森の八戸というところに
行ってきました。東京駅・大丸の地下で求めた巻き寿司。
結構なボリュームで1,300円。高菜に巻かれてるのは
「明太卵」と「鯖」、高菜古漬けには「穴きゅう」が巻かれてます。
古漬けと穴子が最初は違和感なのに噛みほぐれていくうち
絶妙のマッチング。そこにビールをぐいぐい飲み干して……ああ、幸せ。
新幹線の楽しみは、グイグイ変わり行く車窓の風景を眺めつつ
グイグイビールを流し込むことにありますが(私だけ?)、
ロング缶2本で気持ち良く酩酊、着いた八戸はさほどの雪ではありませんでした。
そのへんのことは明日。今日のような固っ苦しくない日記ですので
どうぞみなさまお見捨てなきよう。


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