連想日和

駅に行くまでの道で二匹も日向ぼっこしている猫を見かけた。
野良にしてはよく太った三毛猫は塀の上で、
鈴をつけたシャム猫(今はこう呼ばないかもしれないが)は
タバコ屋の軒先で、どちらも「ギュッ」と目をつぶって
日光を一身に浴びている。
それだけで、意味もなく嬉しく、トゲのない心持ちになって自分でも驚く。
「仏心」という気持ちはこんな気分なのだろうか。
そんなことを考えていたら、とあるマンションの入り口に
ある階段では腰をかけたおばあさんが座って居眠りをしていた。
力なく持った杖が手の中で揺れている。
日当たりのいい場所を見つけるのは猫だけの特技ではないらしい。


杖とおばあさん、という構図を見て
本当に久しぶりに自分の祖母を思い出した。
よく彼女(と言ったら変だけど)も
杖を片手に実家の玄関先でよく長いこと座っていた。あの杖は桜の木だったと思う。
海老のように曲がった腰をさらに丸くして、何をするわけでもなくただ座っていた。


ある夏の日、私が川遊びに行って随分経ってから戻ると、
まだ同じところに、同じように座っていたのでとっても驚いた記憶がある。
「退屈しないのか」「何を考えてるんだろう」とすごく不思議だった。
だけど今思うと、祖母はひたすら「おひさま」を楽しんでいたのだろう。
その贅沢さが、今は少し分かる気がする。
「何も考えない」というのは年寄りだけができる贅沢なんじゃないだろうか。


四谷に来たら桜の木の枝でチャンバラをしている小学生がいた。
結構な太い枝で、どれほどの年月がかかって
そこまで育つだろうと思うと一瞬カッとなった。
何も考えない贅沢、などとついさっき思ったばかりなのに。
陽だまりの猫を見ては仏を思っていたというのに、
いきなり俗世へ。自分でもおかしくなる。
自然に落ちたものかもしれないと思い込むことにした。
桜じゃないが「里の子よ 梅折り残せ 牛の鞭」という
芭蕉の句があったのを思い出す。
猫から祖母、桜の杖から枝、そして芭蕉の句。
小学生とすれ違い私の心に最後に浮かんだのは
ワシントンのお父さんだった。我ながら分裂的だと思う
うららかな春の日。



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今日の一食
新大久保・「クンメー」のカオソイ
http://www.khunmae.net/



カオソイとはレッドカレーにラーメンを入れたものです。
揚げ麺をさらに上に載せるのですがこれが美味い!
ただ今回は麺がぐずぐずでちょっとガッカリ。
ランチだから、と思いたいですがタイ料理は本当によくコックが変わるので
「ここ名店!」と思っても気が抜けないのです。
最近はここと百人町「バーンリムパー」がお気に入り。