連日のいじめ報道に思う「未完成教育論」

今日はちょっと青臭い真面目なことを書きます。
ノーおふざけ。ノーギャグね。
いつものくっだらない話が好きな人はスルーしてください。
いじめとか教育とか、心にもやもやしてるものを
ちょっと具現化してみたいのです。長いよ。


■ペット化する子供たち
 最近いじめのニュースが連日報道、耳を覆いたくなるようなひどい、むごい話ばかりだ。福岡の男の子の葬式では、棺の中を笑ってのぞいていたいじめグループすらいたという報道が……どうか、嘘であってほしい。もはやそれは「悪鬼の類い」であって人間じゃない。どうしてそんな異常な情緒の子供が出来てしまったのか。生きている人間に対しての集団心理、その結果としての「いじめ」ならまだ分かるが、死者に対してそんな態度を取るようでは……もはや救いようがない。ちょっと思ったことを、「お前ごときが偉そうに」と言われようが何だろうが、今日は書いておきたい。


 最近とみに感じてしまうことなんだけど、親が子供のことを「愛玩の対象」としか思っていないなあ、そういう人が多いなあと思う。「子供=ペット」なのね。「私の前で可愛くあってくれさえすればそれでいい」という考え方のもとに接している。ペットだからウンチの世話(オムツ替え)やお手、お座り(義務教育)ぐらいはしてあげるが、それ以上のことなんて、教えようという気持ちは毛頭ない。いいのよ全部やってあげる。可愛く微笑んで、可愛い服着て仲良くしましょ。待て、なんて仕込めたら大したもの。食の礼儀なんて高等なことは、もう親は教えられないのだ。教える気も無いのだ。そう、家の中だったら礼儀なんて関係ないものね。だから学校での出来事は先生のせい。校長のせい。家のことは誰にも迷惑掛けてないから言われる筋合いもない。子供が通う学校、着てる服のブランド、それらはまるで血統書のごとく……。
 そう考えると、昨今の「引きこもり」現象というのは非常に真っ当な流れだと私は思う。しつけの出来てないペットなんだから世の中に出しちゃいけないのだ。分かってるじゃん親。ペットとして育てられたガキが世の中でうまくやっていけるわけもないし、ペットとして育てた以上、「飼い主」が終生自分の手元で全うしてやるのが本当だと思う。引きこもりを育てている親ほど、現在責任感のある親もいないであろう。さらに考えると、あの亀田なんとかという子供は「土佐犬」として考えるとヒジョーに納得がいく。亀田パパはトップブリーダーだったのか! はい、思いっきり念の入ったイヤミです。笑


■子供にナメられたら終わり
 「子供=ペット」というスタンスは非常に危険だ。なぜなら、親が子供に好かれよう、としたら終わりだから。どんなにキッツく怒ろうが、いつも小言しかいわなかろうが、好き嫌いを許さなかろうが、心から思っていえば、子供は絶対に(いつかは)わかるもんだ。そうじゃないか!? なんでそんなに自信が無いんだろう。なんでそんなに今、好かれようとするんだろう。私には子供も結婚すらしていないけど、「絶対将来お前が困る、だから許さない」という態度で接した親の姿を見てて、そんなことぐらい分かるけどなあ。はいまたイヤミ。
 今のこの瞬間だけ、親子間でイヤーな空気が漂ってしまうことを恐れて叱らなかったり甘い顔したら、絶対に子供って親をナメるもんだ。私がそうだったもの。こうすれば親は許してくれる、私のいいようにしてくれる、というポイントを常に探しているのだ。見定めようとしるのだ、子供(ルビ・ガキ)なんてものは。
 うーん……人様のなきがらを笑ってのぞくような子供、もし自分のガキだったら土下座して許しを請うまでシバき倒しますけどね。そんな子供を世の中に出しちゃいけないもの、申し訳ないもの。そして人の死に対して厳粛な気持ちを持てないような「仕込み」をしてしまった自分を責めるべきだものね。多分この子の精神年齢は小学校低学年レベルなんだろうなあ。「死」というものがなんとなく恐ろしく、なんとなく非日常的で理解できない、だからギャグ的レベルまで引き摺り下ろして笑ってごまかす。子供が知らないことにぶつかったときよくやる行為だ。そのとき「何笑ってんの!」といってやる大人がいなかったのだ。もう子の子供は、治らない。
 はっきりいってみんな「めんどうくさい」んだと思う。自分はいい子でいたいんだものね。楽したいよね。そんなことより、自分の人生楽しみたいよねえ。そりゃ、そうだ。


 なんていうか……子供を産んで母になるということをナメ過ぎてる人多いんじゃなかろうか。女でもなく産んだことももちろん無い私が、こんなことを言うのはおこがましいのは承知の上だけど……子育ってって、どっかでちょっとでも気を抜いたり子供から目を逸らしたら、すぐに子供は察知してすねたりひがんだりするんじゃないだろうか。
 自分ちの話で恐縮だが、ちょっと振り返ってみる。
 私の母親は、「母親になる」ということを職業のように考えていた人だったと思う。(だった、なんて書くと故人みたいだがまだピンピンしている)「妻」は契約だが「母」はそうじゃない、一生逃れられないものとして、どこかクールな目で見ていたんだろうと思う。私が長ずるにつれ、彼女から色々話を聞いてるうちに感じたのだけれど、「結婚と子育て」というものを結構なビジョンをもって考え、行動して、子育てしていたのだなあ、と思った。「母」という職業に出産と同時に就職して、責任を持ってまっとうしようとしてるんだなあ、と感じる折々があったのだ。彼女の「妻・母」としての就業規則はなんだったかというと。

●結婚して「主婦」になり「子供を持つ」という場合、夫はその子が就職するまで苦労させないだけの稼ぎができる男でなければならない
●子供を持ったら、その子がどんな子供になってほしいか、具体的に考える。そして、そのためにはどんな教育をどんな段階からしたらいいか勉強する
●小学校低学年のうちに体で分からせることがある。理論が通じない時期に覚えさせることがある
●あらゆるものをさせてみて、興味のあるものは取りあえずやらせてみる
●子供に分からせておくことは、父親と母親はイーブンなもの。
●最終的には一人前にして社会に出す
 そこまで考えてから結婚し、妊娠し、10ヶ月を過ごしていたようだ。しかしながら悲しいことに、その成果であるご子息は31歳になる今もいまいちパッとせず、現在の悲痛な心中は充分察せられるのだが……と、そんなことはどうでもいい。(全然よくない。この話根底から崩れているような気もするが続ける)
 母の端々から感じた彼女の教育哲学だが、いやー大変ですねまったく。くたびれなかったですかフジエさん。血という繋がりのもとの「仕事」でしか他ならないものね。絶対に逃れられないタスク。もうすっかり死語だが、昔はガキがなんかしでかすと「親の顔が見たい」と世間から罵られ、夫からは「母親の教育がなってない」と一方的に責任を押し付けられ、姑からは「よし子(仮名)さんのしつけがなってないから」といびられたのだなあ。まぁだからこそ真剣に子供に向かい合った、という北朝鮮の核実験みたいな抑止力(子育て放棄のね)があったのかもしれないけれど。
 結局すんごく「めんどうくさい」ことなのだ、子育てって。やってもないのに言わせてもらうが、母の後姿を見ても到底「ちゃんとやろう」とすればするほどイバラの道だと思う。


 けれど、その辺のことを考えてみることが、洗いなおしてみることが、少子化とか引きこもりとかニートとかいじめとかダメ教師とか非登校とかの事象を考える最大にして唯一の手がかりなんじゃないだろうか。最近のニュースを見るたびにそう思えて仕方ない。何ごまかしてんの!? 何おためごかし言ってんの!? そう自答せずにはいられないのだ。
こんなことを言っては本当に不謹慎なのだけれど、いじめ問題や自殺者が出るたびに発せられるお決まり文句、「学校での実態をきちんと究明して、今後二度とこのようなことが起きないような一助になれば……」という遺族側のコメントが、私にはどーにも腑に落ちなくて、なーんか誤魔化してる気がして仕方ないのだ。


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