造反組復党から思う「いじめをなくす」という風潮

平凡な名前が一大風格を持った見本

 こんにちは、雑誌「AERA」の中吊り広告の定番オヤジギャグがいつもは大嫌いなのに今回は笑わされちゃってちょっと悔しい白央篤司です。いやーキレイにまとまってますよ今回のフレーズ。はいご紹介「ユカリある党に戻るノダ」うまいっ! そしてそう思っちゃった自分が悔しいッ(笑)! まあオヤジ化してんでしょうね自分も。
 ていうか「もともと郵政民営化には反対してないしー」ってな造反組のコメント脱力ですねーバッカバカしいですねー笑っちゃった思わず。というか……政治っていつからこんなくだらないトピックばかりになってしまったのだろう。佐藤ゆかりさんの「誹謗中傷するビラがまかれて、動物の死骸を投げ込まれたこともありました」というコメントには驚いてしまった。なんという低レベルの嫌がらせだろう。その一方で「いじめはやめましょう」というようなトピックが流されてるニュース……なんの説得力もありゃあしない。
 大人はいつから子供の手本になることをやめてしまったのだろう。これだけ大人の醜いところ垂れ流しておいて、子供が人を思いやるような気持ちを持てるわけないじゃないか。


●「子供を変えるには」
 うーん……似つかわしくもなく真面目なこと考え出しちゃったので書いてしまうが、「いじめをなくす」とかいうこの(あえてこの言葉を使うが)風潮は本当にくっだらないと思う。いじめはなくならない、というところからスタートして考えるべきじゃあないか。「いじめを最小限にするにはどうしたらいいか」というところから始めるしか私はないと思う。それにはどうしたらいいか。
 大人がひとつでも多く手本になるしかないのだ。
世の中にはこんなきれいな言葉があるのだ、こんなきれいな精神を人間は持てるのだ、ということを率先して日頃から生活において実践するしかないと思う。それは言葉遣いとか挨拶、というレベルのことでいいのだと思う。
 道徳の時間みたいな話になって自分でも嫌なんだけど、吐き出してしまおう。最近のいじめ問題やらの報道を聞くに付け、私にはある思い出がよみがえってきてしまう。それは小さい頃、本屋さんで初老の男性が私の前を通り過ぎる際「失敬」と言って手を突き出し、会釈したという些細な思い出だ。しかしそれは、強烈に印象的だった。今思えば「あんなおじさんでも僕みたいなガキに気を遣うのか!」という驚きでもあり、「一人前扱いされたようで嬉しい!」という喜びでもあったんだと思う。以来、私は本屋で人の前を通るときは「すいません」とか会釈ぐらいはするものなんだな、と思って実行するようになった(さっすがに失敬とは気恥ずかしくて言えないもんね)。それは「大人が手本を示した」ということではなく、そうすることが「大人みたいでカッコいいー」と思ったからなんだよなあ。そう、「俺っておっとなー」という単純な気取りによって会釈をするようになったのだ。でも、それでいいんだと思う。


●枯渇した心を満たす「永遠の処女」
 と、ここで話が突然変わるようだが、伝説の大女優・原節子について考えてみたい。彼女はなぜに戦前から今までエバーグリーンな存在で、世のおっさんたちの永遠の憧れたりえるのか。
 それはひとえに、日本語と日本の美しい仕草、謙虚とか含羞とか(この言葉分からない人は是非コピペしてヤフー辞書で調べてください。最も美しい日本語のひとつだ)恥じらいといったものを体現してきた存在だからだろうと思うのだ。「ああ、日本語って綺麗だなあ」「こういう言葉が板についてる人って素敵だなあ」という人の美しい心に触れる悦びを感じさせてくれる存在だからこそ、これまで伝説として生き残ってきたんじゃないのだろうか。
 さっすがに今どき「そんなことございませんわ」「嫌ですのあたくし……」と言った言葉遣いは浮いちゃって失笑を買うだけかもしれないが、こんなに美しく豊かな言葉に溢れている母国語を持っていると知っている人は何人いるだろう。私は本当に最近、国民全体で「言葉」をないがしろにしているような気がしてならない。ああチンピラ・ライターが偉そう! でも書いちゃう。自分達でないがしろにしていることは気づいていないのに、やはり無意識に美しい言葉、美しいこころに飢えている人は多いんじゃないかと思う。近年の出版ブームのひとつに綺麗な言葉や美しい日本語を教えるような書籍が売れたこともそうだし、私は美智子様が主婦連の永遠のアイドルの一人である理由は、あの聖母的存在に触れていたい、オアシスになってほしいという渇望がある気がしてならないのだ。
 私は最近突然むしょうに「万葉集」とか読み返したくなって仕方なくなるときがある。あの牧歌的というか広々とした自然を詠(よ)む心、単純に一途に人を思う心に触れたくて仕方なくなってしまうときがある。近現代なら夏目漱石の「こころ」の主人公の純粋さと奥ゆかしさ、幸田文の「流れる」に溢れる日本語の豊富さときらきらしさ……枯渇したガソリンを補充するかのように、「ああそうだそうだ、こんなにすっごいものなんだよねえ日本語って、日本のスピリッツって!」と再発見、再感動したくてたまらなくなってしまうときがあるのだ!
 話がドンドン逸れていってしまうようだが、いじめを少なくするには綺麗なものをいっぱい知っている人が増えるしかないんだと思う。それは理想論じゃなく、子供だろうが大人だろうが人の前を横切るときは、会釈するような大人が増えていくしかないんじゃないだろうか。一回言ったことを簡単に、それも政治家が翻すようなことが少なくなるような日常があることが大事なんじゃないだろうか。先生も親もない、「大人って素敵だなあ!」と子供が思えるよう、全体が美しいものを伝えるしか道はないと思う。はい、自分もそうなれるよう、頑張ります。あー長かったですねそして偉そうですね、ごめんなさい。読んでくれた方、ありがとうございました。
うーん、野田聖子佐藤ゆかりの因縁話はどうしてかくもオヤジの興味をそそるのだろうか、などその辺の考察をするつもりがこんな結果に(笑)。思いつきでバーッと噴出してきちゃうんですよスイマセン。明日からはまたくっだらないこと書きます。どうぞお見捨てなきように。


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