「私の百人一首」白洲正子:著

白洲正子

 「別にいーじゃん」と思いつつも、私は「百人一首を諳んじられない」ということが結構なコンプレックスだった。古典文学や芸能を愛する人々にとっては「常識の最低ライン」、ってな感じだし、別に古典というくくりにせずとも、近代の小説家たちにとっても「必須知識」だったわけで。歌舞伎の感想を偉そうに書いたり、「好きな小説家は?」と聞かれて「うーん、よく読んだのは谷崎や三島かなあ」などとホザくたびに、胸の中でちょろっと「百人一首も諳んじられない奴がえーらそうに」と自嘲していたのだ。あんな知識の権化みたいな作家を愛読なんて言いつつ、この体たらくでどうする! そんな思いもあって、この本を手に取ったのは(我ながらビンボ臭いが)ちょっとした「お勉強」目的からだった。
 この本の一番素敵なところは、私のような「お勉強」目的を完全否定してくれるところだ。読んでいてとても、楽になれる。白洲さんはまず「私がなるべく現代語に翻訳したくないのは(中略)言葉の意味より、歌の姿、調べというものがはるかに重要」と思うからだ、説く。そして猿丸太夫の「おく山にもみぢふみわけ鳴く鹿の 声きくときぞ秋は悲しき」という句を例に挙げ、「何も考えずにこの歌を口ずさんでいれば、しみじみとした秋の気配が迫ってくるに違いない。歌でも絵でもほんとうに鑑賞するということは、すべての先入観や偏見を忘れることであり、無心で付き合うことが大切」と言われる。ああ、そうだ、そうだなあ!
 この、「歌の調べ」を「口ずさむ」というところが、古典の大きな面白さだと思う。それほどに日本人が捨てた言葉の音色は魅力的なものが多い。蝉丸の「これやこのいくも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」という句の持つリズム、まるで名選手が扱う新体操のリボンのようだ。くるくるひらひら、まったくもって無駄も抵抗もない。と、例えを挙げればキリがないが、口ずさむことで見えてくる情景、というのが確かにある。助詞の意味がどう、これは意味のない枕詞、などと考えるより、その胸中に浮かんだイメージに遊べることのほうが、よーっぽど素敵なことじゃないだろうか(まあ勿論、白洲さんは知識も存分にあった上で心象世界に遊んでらっしゃるし、この本が刊行された当時の、この本を買おうと思うような人達の基本的素養、それを現在の私たちと同列にくらべてはまったくいけないのだ)。
 だが私は読んでいくうち、なんだか白洲さんに「とりあえずあなた、声に出して御覧なさい」と言われているような気になってくる。「考えずに、味わえ」というポリシーがそこかしこに感じられる。
 これは、白洲正子という「監督」が百人一首という原作を、それぞれの百本の「ショートフィルム」に仕立て上げたような本だ。万葉から平安の御世がおのず目に浮かんでくる。具体的な解説詳述など、ほとんどないというのに。


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