「東海道四谷怪談」

播磨屋

 目の前に瞬間、役者絵がひろがる。そのスケールは空を行く大凧のごとく雄大で、描き手はもちろん、写楽! 歌舞伎のアナーキズムを極限までデフォルメした写楽の世界が、つかのま劇場に満ち溢れる。ああ、これこれ、これを体験したくて私は、中村吉右衛門の舞台に来てしまうのだ。役者の符丁でいうなら「バーッタリ」と、ツケ打ちが入り吉右衛門が見得を切るたびに、古風なる江戸芝居小屋の世界がよみがえる。播磨屋、初役の伊右衛門新橋演舞場5月大歌舞伎、13日の見物雑感を役者中心にメモします。
 今回は画期的に「三階さん」とよばれる門閥外の役者が登用された公演だった。腕の立つ脇役に活躍の場が与えられる――素晴らしいことだと思う。


■序幕・第一場浅草観音額堂の場


 茶店の女に京紫。この方はゾロっとした娘役などやるとハマリだと思うが、こういう市井の、それもちょっと下世話な女には成り切れない綺麗さがある。もっと「捨てて」やってほしい。そうでないと芝居の導入として「生世話」に客がノレない。
 お岩妹・お袖に中村芝雀。手堅い。もっともっと「図々しく」なってほしい。手堅さに、ちょっと遊びというか、「見せる」ところをつくってくれたら……と、いつも思ってしまう。
 直助権兵衛に市川段四郎。すべてソツがないのに、播磨屋はじめ京屋と並ぶ、それだけで芸育ちの違いが浮かび上がり、どこか交じり合わない不思議。空色に染めた和紙の上に「コバルト」を一滴たらしたような風情。
 お岩の父・四左衛門に大谷桂三。いつまでも私はこの人が覚えられない。若手がやっているのかと思ったほど、姿が若い。が、それは若々しいというのとは違う。

 
■第二場 按摩宅悦内
 市川染五郎の佐藤予茂七。手堅い。うーん……いや、いいんです。悪いところなどない。ただ、ソツがない、という表現が一番近い。いろんな役に挑戦されて、そのどれもお上手だと思う。けれど、私はこの人で「よかったなあ」と膝を打った役を考えると、「籠釣瓶花街酔醒」の次郎左衛門が下男・冶六を思い出す。お主を思う山家育ちの若い男、その純情は見事だった。色男、お武家よりも、そういった朴訥一途な役のほうが合うのではないか。


■第三場 浅草田圃地蔵前・裏田圃
 そしてここから、いよいよ殺し、悪の世界。奥田庄三郎に中村錦之助、どうしてこんな損な役を……いきなり直助に殺されるが、ここが凄い。刺し殺したのち、「そうだ、顔がわからねえようにしとくか」と、包丁でザクザク顔を切り刻まれる。もちろん歌舞伎のこと、リアルにはやらない。客に背を向けて、直助は庄三郎の顔を軽く切るふりをする。これが、怖い。
 ここの殺しは、なんのためらいもない。私たちが朝でかけるとき、「あ、鍵忘れた」と取って戻りるかのように、「おっと、顔を潰しておくか」とヒョイと戻り、氷を割るかのように、顔を刻む。まったく心を入れてないことで生まれる、悪のリアリティ。歌舞伎は、こういうところが面白い。


 この場でお岩・中村福助の登場。花道から手ぬぐいを十六夜のようにかけて現れる。この瞬間、ブロマイドでしか知らない五代目福助の面差しがスッと重なり、驚く。ほんの一瞬だけど。いつも思うが、なんだかんだいってやはり「華」、数少ない「主役の存在感」を持っている人だ。パッと明るくなるものなあ。

記者懇親会から

■■二幕目
第一場 伊右衛門浪宅
 そしてお岩の最初の見せどころ、毒を飲むシーン。腕と芸のみせどころ。いざ毒(そうとお岩は知らない)を飲むまで、そして飲んでからの長丁場、ずっと「歌右衛門への挑戦」というフレーズが頭をめぐる。間合い、仕方などすべて相当意識して、近づこうとしてるのが見て取れる。のちの第三場で披露するが、あの歌右衛門独得の手をヒラヒラ、シナシナする動きなど、よく真似ていて、ほんの少し手の内に入れたように思える。ただ、やはりどうしても元気そうだな福助。「血の道のせいであろう」と呟いたときに、歌右衛門から匂う子宮があるが如きの痛切さが出ない。


■第二場 伊藤喜兵衛内
 いつも「こいつさえいなければ、こんなことには」と思う伊藤さんに沢村由次郎、特になんの感想もない。孫娘が妻子ある人を好きなった、その願を叶えてあげたいから、その奥さんに毒を盛ろう、と考える人である。ちょっとまて。
 第一場でもう出てるが、乳母の中村芝喜松が良かった。先の場で「どれ、私があやしてあげましょう」と赤子を抱きに小走りするときなど、師匠ゆずりのパタパタっとした動きに芝翫が浮かぶ。出すぎず、やりすぎず、けれどキメのセリフもしっかりいえる腕のある人。
 そして伊右衛門に思いを寄せる娘お梅に中村京妙、三階美女軍団のひとり(写真右)。大振袖がいつまでも似合う人だ。そしてさらにお梅の母・お弓に中村京蔵。「出たーッ!」とひとり喜んでしまう。CMでおなじみ、「勘定奉行」の方だが本来は女形。仰々しいものいいが堂に入って流石だが、この方のほうが京妙よりも後輩、というのが歌舞伎の妙。お弓は隠亡堀の場でも立派だった。


■第三場 元の浪宅
 按摩宅悦の歌六。手堅い。それだけしかいいようがない。ここでの福助は真摯に役にぶつかっている、という印象。しかし役者としてハードな場面だ。1時間ぐらいの間に、騙された悲しみ、顔が毒で醜く変化した驚き、絶望、怒り、そして呪い殺さんとまで思いつめる怨念、邪心への変化を見せなくてはならない。鉄漿(かね)をつけて髪すきをするところでの笑いを取るような宅悦とのやりとり、不要だと思うんだけどなあ。
 ここから以降は福助はじめ、全体的に未消化、という感じ。仕掛けの数々もエッチラオッチラ、という感じで役者・スタッフ共に手探りの印象。怖がらせる、面白がらせる、このバランスの妙が取れていなくて残念だった。ただ播磨屋の見得の古色たる風合いを楽しんでいるうちに「これぎり」となってしまった。吉右衛門については明日。


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