勝手にヤサブロー日記

池田弥三郎「私の食物誌」より
(ことの起こりはこちらまで)



〜縁日でよくどんどん焼きを食べた。
 うどん粉に卵を入れて水でといたものを、火にかけてある鉄板の上にしいて、その上に実をのせて、また上から衣をかけて、へがしでひっくり返して焼き、ソースをかけて、新聞紙の袋にいれてくれる。(19日)


〜屋台の、子供相手の、二銭三銭五銭といったどんどん焼きが、出世して、いつしか「お好み焼き」になった。そして銀座の露地の奥などに、ちょっとした店ができた。それは昭和の初年頃ではなかったか。(20日




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 池田さんはこの時期、随分と縁日をお見かけされたようで、ずっと屋台のことを考えている。
どんどん焼き」という言葉は知らなかった。敗戦の年に生まれた母に訊いたら「知らない」という。昭和初年にお好み焼き屋が出来ていたというのだから、そりゃ知らないか。
 昔、兵庫県に住んでいたときは毎週のようにお好み焼きを家で焼いて食べていた。やはり影響されるのだなあ。しかし仙台に移り住んでからはパッタリやらなくなった。転勤族というのは、染まりやすいものだ。

 
 池田さんは銀座・京橋の生まれ。東京でも昔からお好み焼きは好まれていたんだなあ、と少し意外に思って調べてみたら。
 一説によると、お好み焼きは東京が発祥の地という。なんとまあ。さらに調査。大阪の若竹学園というお好み焼き教室が主宰する「にっぽんお好み焼き協会」によると、その説は採用されていない。ちなみにこの教室、日清製粉社長などが理事に名を連ねる随分きちんとした協会。大阪人には許しがたい説なのだろうか。
 はてさて、大阪では「どんどん焼き」といったのだろうか。ちょっとそれはまた後日の宿題に。



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