スタアの死

 なんだか人の死に関する日記ばかりになるのが自分でも悲しくて、嫌で、随分と延ばしたままになっていた。


 俳優、池部良さんが10月8日、敗血症のため亡くなられた。92歳。

 池部さんは能筆でも知られ、多くのエッセイの連載を持たれていた(晩年はほぼそちらの活動が主だったと思う)。その著書のひとつに『風が吹いたら』というものがあり、これが私にはとても印象的で、強く心に残っている。初版で買った。1987年。中1の頃に読んだんだと思う。
 小学校6年のときに古い日本映画に興味を持ち始め、名画座に通うようになった。そして映画に関する本ばかり買い集めるようになった。
 ひょっとしたら日本映画に関する本で一番最初に「新刊として」買ったのが、この『風が吹いたら』だったのかもしれない。興味のある、映画に関することだけ抜き読みしたのを覚えているが、育った町のことや戦争に関する記述が多くて、「なんだ、高い本だったのに映画のこと少ないなあ」なんて残念な気持ちになったのをぼんやり覚えている。

 しかし……とっておくべきですね、本は。
 映画以外の部分も、今読み返すと実に面白い。戦前の東京、戦中の人の心、戦後すぐの日本の情景……そのいずれもが池部さん主演の短編フィルムを観ているようだ。親父さんにゲンコツをもらってすぼめた少年の口が、兵隊でつらい思いをしてしかめた眉が見えてくるような思いになる。

 この本を書き著したひとが亡くなってから読み返す日が来るとは、なあ。
 そんな思いになって、何度かページをめくる手が止まってしまった。


 初めて読んだ13歳のときには、未来なんて、どんなに想像してもまったく見えるものではなかった。未来の自分を考えたことは勿論あったけれど、せいぜい26歳ぐらい(なぜか26歳までだった。仲のいい塾の先生がそのくらいの歳だったからだろうか)で靄がかかって、何も想像できなかったのを覚えている。自分に三十代が来るなんて、全然思っていなかったんだ。
 
■スタアの矜持

 池部さんは「やあ」という言葉の似合う人だった。
 私は日本映画における「いい男」の条件というのは、「やあ」という挨拶が自然に発せられるひとだと思っている。このセリフを言わせたら、池部さんは随一だ。しかし、こういう男の挨拶の文化は廃れてしまった。もったいないことだと思う。
 そして「ぼく」というのは、この人が発するためにあるような一人称だとも思う。

「ぼくは今日の日まで、自分の戸籍抄本の年よりもはるかに若い年齢の役を多くやり続けてきた。
 演る度に、豊田(四郎)監督の『幼い顔でやりなさい』が脳裏にへばりついて、生活のすべてを幼稚思考することの習慣が、身についてしまったのではなかろうかとつねづね思い返している。自分の年がいったいイクツなのか、見当がつかなくなっていると言ったら、笑われるに違いない。だがほんとに近い」
(『風が吹いたら』文藝春秋 1987 176ページより)


 謙遜だと思う。これは、スタアとして観るものの夢を壊さない、というスタア俳優・池部良の矜持ではなかったろうか。そして最期まで、池部さんはこの「感じ」を保っておられたと思う。「ぼく」が似合う人。ここを貫かれたその姿勢を思うと、また胸が熱くなってくる。
 昭和の、映画のスタアという息吹を男優で一番感じさせてくれたのは、私にとっては池部良さんだったのだ。亡くなられてはじめて、そうまでも思っていることに気がついた。遅いね。ほんとうに遅い。
 

 池部さんは俳優として立った最初のスタジオで、
「大声で挨拶したら『バカヤロ、トウシロみてえな口利くな』(略)と側にいた録音の助手にぶんなぐられた」
 セットがあまりにも汚いので靴のままあがったら、
「大道具の親方に『てめえ、セットにどた靴のまま上がりやがって。十年早えんだ。叩っ殺してやる』と金槌を振り上げて襲って来たから懸命に逃げた』」
 すっかり上がってセリフが出てこなかったときは、
「ドスンと大きなスパナーが落ちて跳ねた。『入りたてのくせにしやがってよ。台詞ぐらいは覚えてこいや』とライトの間から照明助手がどなった」
 (同著、105ページより)

 と、散々だったようだ。いきなり役がついたヤッカミもあったのだろう。大部屋の俳優に気絶するまで殴られたこともあったという。
 それが翌年。池部さんに赤紙が来て、兵隊に取られることになったときのこと。出征のさい日章旗が用意され、まず長谷川一夫、藤田進、入江たか子といったスタア連がサインしてくれた。そして、

「十年早えと僕を殴った大道具、小道具、照明助手も牢名主の俳優さんも『死ぬんじゃねェぞ、生きて帰って来いや』と馴れない手つきでサインをしてくれた。訳もなく涙が流れた」

 ここの箇所を読んで、また読む手が止まった。しばらく止まった。

 彼らに、会えただろうか。

 私にしては珍しく、そんな感傷的な気分になった。

 

<記録>
1949年の大ヒット映画「青い山脈」などで知られる俳優で作家、池部良さんが8日、敗血症のため都内の病院で死去した。享年92。甘いマスクと1メートル75のスラリとした体形で永遠の二枚目俳優として活躍。150本以上の映画に出演した。
 所属事務所によると、1カ月前から体のだるさを訴えて都内の病院に入院。美子夫人が泊まり込みで看病をしたが、容体が急変。8日午後1時55分、夫人ら親族に看取られ、静かに息を引き取ったという。
 41年、映画監督を目指し東宝に入社したが、そのルックスが関係者の目にとまり、同年の映画「闘魚」でデビュー。65年からは「昭和残侠伝」シリーズに出演。高倉健(79)とのコンビで一世を風靡し、70年の「死んで貰います」では、池部さんの「ご一緒願います」のせりふが流行語に。2人はプライベートでも「健ちゃん」、「先輩」と呼び合うなど固い絆で結ばれていた。
 一方、日本映画俳優協会代表理事だった65年、俳優による拳銃密輸事件が発覚。俳優と暴力団の絶縁を宣言し、気骨のあるところを見せていた。
 私生活ではゴルフ好きで知られ、最高でハンディ9の腕前。77年5月からは、サンケイスポーツでゴルフ友達の著名人との交遊を綴った週1回の連載「グリーン交歓」を1年3カ月間続けた。(サンスポ10月12日号)