まったく耳を覆いたくなるような陰惨で変質的な事件が多い中、
大阪府河内の自殺ネット連続殺人事件は、
自分でも不思議なぐらいその続報を聞かずにはおれない。
被害者の方々は気の毒としか言い様がないけど、
余りにも寒々しい、悲痛感のある事件だと思う。

学生の頃は水泳部に属していたという容疑者、
ワイドショーなどで伝えられる情報を聞くと、
部活で練習中、部員同士がふざけて水中で足の引っ張り合いなどしているときに、
苦しみもがく仲間の顔を見るにつけ異様な興奮を覚えたと言う報道が。
さらにはふざけてプロレスごっこをしていると、
「首を絞めると相手の顔が赤く充血し、怒張するその様が自分に性的興奮をもたらした」
と伝えられていた。そこまで供述したのか。
ワイドショーの信憑性はさておき、「相手の(被害者の方)首を絞めて
死にゆくまでの表情が見たかった」という事は
容疑者本人のコメントとして揺るぎない事実のようだ。


うーん、私にはもうこの犯行事態が容疑者の壮大なる、
自己中心的な「カミングアウト」のような気がしてならない。
動機や手口、死体隠蔽場所の供述の早さから言っても
「彼」は、すべてを告白してしまいたい欲求に駆られていたんじゃないだろうか。


今見れば、なぜこんなライトな刺激で興奮したのか分からないぐらいの
セミヌード(死語だなー)やエッチなマンガでも
大喜びで読み漁っていた思春期のある一時期、
「彼」は、まったくそういった物に反応しなかったのじゃないだろうか。
性的な反応は男の場合如実な形となって現れる。
(キレイ事じゃなく言えば、勃起ということね)
他の人間が勃つもので、自分はまったく勃たない。
自分が勃つのは、苦しみに歪む人間の表情。
そこに「反応」してしまった「彼」はその事実をどうやって受け止め、
理解したのだろう。余りにも悲しい、ヰタ・セクスアリス
同世代の友人達が、クラスメートの女子の体の話や
アイドルの水着姿の話などに興じているとき、
「彼」は何を思い、自分の「性的志向」に関して、どんな格闘をしたのか。


ネット普及の功罪の一つは 「セクシャル・マイノリティ」の人間が
「自分だけじゃないんだ!」という安心感と正当性を持てたということだと思う。
これによって凄く救われている人も居るし、
物凄く勘違いして暴走している人も存在する。
人に迷惑をかけなければ性嗜好なんて何をやってもアリだと思っているが、
……幼児性交と殺人だけは、 うーん、やっぱりダメだ。強要だもの。
たとえ、そういう風に生まれてしまっても、理性と性は裏表だもの。
エロビデオ借りたり、たまに風俗に行ったりして
欲求を満たすごく普通の男の生活が、「彼」には存在しなかったのだ。
「Hしたいなー」という欲望が「絞殺」という形でしか
満たされなく生まれてしまった悲劇。
たとえば同性愛だって、「なんで異性だと興奮しないのか」
なんて理由が分かるわけもない。
本能的に反応してしまうんだもんなー。


「人と違うんだ!」と気付いたときのショックや
孤独感というのは本人しか分からないものだと思う。
ましてや、自分が性的欲求に駆られる対象が
「苦しみもがく人間の表情」という事実に
向かい合う辛苦なんて、想像を絶する。
もちろん殺人という反社会的行為は絶対に許されるものじゃないし、
「自殺志願者なら足がつきにくい」だろうと考え方は、
これ卑劣極まりない。やな男。


しかし、もし自分が「彼」だったら、
道徳律の中に自分の「性」を隠し、
押さえ続けて人生をまっとう出来ただろうか? と
自答せずにはいられないのだ。