森光子主演『放浪記』

「光ちゃんのどこまでやるの」


 ひとことでいうと、「結婚式みたいだな」と思ったんですね。 以下、変な例えですが、こんな感じ。


○親戚の二人のオバサン

 田舎の親戚をイメージしてみてくださいな。大概どこにも、口うるさいオバサンと、対照的に人のいいオバサンってのがいませんか。
 そんな二人が、年の離れた甥だか姪だかの結婚式で語り合っているかのよう。


A「んまーっ、なんだろうねあのキモノ。品がないよ」
B「まあまあ、いーじゃないの。結婚式だもの。お祝いだもの」


A「んまーっ、花嫁がお酒飲んで酔っ払ってるよ」
B「まあまあ、いーじゃないの、結婚式だもの。おめでたい席なんだもの」


 江戸褄でささやきあう二人が、鑑賞中の私の心に突然の来訪。


A:「なんだろうねえ、セリフがおぼつかないよ」
B:「いーじゃないの、森光子さんだもの。文化勲章だもの」


A:「テンポが悪いねェ、もうやめたほうがいいんじゃないの」
B:「いーじゃないの、森光子さんだもの。国民栄誉賞だもの」


A:「ちょっと……目線が定まってないわよ、大丈夫かしら……」
B:「大丈夫よォ、森光子さんなんだもの。2000回なんだもの!」


○帝劇に充満するある「空気」


 クリティカルなことが心に浮かぶたび、「でも……こんなことを口に出すのは野暮ってなもんか」
 そんな気持ちにさせられる舞台、それが森光子の『放浪記』。
「揚げ足とってどうするの、文化勲章ですよ2000回ですよ国民栄誉賞ですよ!」
 いちいち、「誰か」が心の中でとりなしてくる。
 結婚式って、花嫁花婿に対してはちょっとした冗談さえ完全タブーなのと似たような空気、これが帝国劇場に充満している。

 
 ひとえに私の性格の悪さゆえなんでしょうが、なんですか「祝賀ムード・一色」という全体的な雰囲気が、どーにも息詰まりなのだ。森光子のことが嫌いでもなんでもない。率直に、すごい記録だと思う。尊敬に値する気力だと思う。しかし、くだんの雰囲気に違和感を感じてしまう。
 だいたい、「演劇者としての森光子」は、この絶賛オンリーみたいな状況をどう思っているのだろう? 誰も自分を叱ってくれなくなった……よくあるトップの悩みだけれど、この「いたわり満開」みたいな周囲の接し方に、役者としてある種の憤懣を抱かないものだろうか。



○森光子を「見る」ということ
 
 
 『放浪記』という芝居自体に思ったことは、多々ある。けれどすべて、もう誰かが書いてるだろうと思うことばかり。暗転の長さ、ナレーションを使った「つなぎ」がさほど効果的でないこと、脇役たちの商業演劇的な馴れきった演技……すべてこれ、お客からしたら「森さんが見られれば、いーのよ」のひとことで片付いてしまう問題に思える。
 実際、周囲のご見物は帰っていくとき、「森光子を見た」という事実を体験したことで、細々した「まずさ」はサッパリと洗い流されているようにみえた。
 私は今の場合、「見る」と書いている。「観る」ではない。この二つの漢字には大きな意味の隔たりがある。私は舞台と同時に観客も注意深く観察したつもりだ。私には、会場を覆う空気が「見ている」ように思えてならなかった。ひとえに私の独断で書き進めてますけどね。
 しかしその場合、「見られる」こととは、主演者にとって幸せなことなのだろうか?
 森光子は、役者なのか。俳優なのか。女優なのか。そのどれでもないような気もする。そのどれであることの達成感も、半端にしか今の『放浪記』は満たしてくれないような気がする。



(と、書いていると『放浪記』にネガティブな印象だけを持ったように思うかもですね。これはフォローでもなんでもなく、存在感の大きさには実に感じ入った。ラスト、何分あるのだろう……結構な分数を彼女は寝ている芝居だけで「もたせ」てしまう。こんなことは並の女優に出来る芸当ではない)



○森光子のカーテンコール


 一部で超話題の、最後のカーテンコール。
 テレビでご覧になった方も多いでしょう、終始無言で正座して、上手(かみて)から下手(しもて・舞台のみぎひだりのこと)に手を伸ばし、2階の客までに目を凝らすあの所作。
 大野一雄の舞踊のようだった。時間も重力も超越したような異空間。息が詰まりそうなテンションの中で、本人だけが超自由というような感じ。
 森さんは、あれをどういう気持ちでやっているのだろう。観客が……この言葉の選択で間違いないと思うが、「凍り付いて」いるのを、どう思っているのか。
 私は、分かってやっていると思う。
林芙美子ではない、『私だけ』を、注目して!」 
 そんなエゴイズムを、彼女はあの瞬間に解き放っている。あの瞬間だけは、彼女は「女優」以外の何者でもなかった。その自我の開放は、2000回というレコードに対する自分への「ご褒美」なのだろう。


(21日)


○追記

 最後の幕にしか出てこない斉藤晴彦、うまいっ! あそこでスッキリした人は多かったのではないだろうか。演劇的カタルシスをもたらす数少ないひとり。



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