芸者の喧嘩、というもの〜『幕末太陽傳』

南田洋子・長門裕之



「そういうわけにはいかんだろう」

 はい、ごもっともです。
 でもねえ、私はいつも女優さんの訃報に接するたび、思ってしまう。その方の、一番の花の盛りの写真を載せるわけにはいかないもんだろうか。

 もちろん、素敵に歳を重ねられた方の晩節というのは見事であり、尊い。しかしねえ。やーーーーっぱり「女優」に限り、「何も最近の写真や映像ばかり流さなくても」と思ってしまう。せんないことですが。

 南田洋子さん、死去。76歳。認知症になられた姿を夫・長門裕之が公開したことについては、意見も様々だと思う。ひとまずここではそれに触れないでおく。


 
 この人は「声」が良かった。
 すぐに「南田洋子だ」と分かる声。これ自体大きな特質だと思う。地味にも派手にもなれる役者だったと思う。今回はじめて知ったが、先代・水谷八重子に弟子入りしていたのですね。そういう意味では岩崎宏美の「姉弟子」になるのか。と、どうでもいいトリビアはさておき。


 川島雄三監督の『幕末太陽傳』(1957)の演技が印象的。左幸子と派手な喧嘩をするシーンが、それはそれは見事だった。
 池波正太郎さんが書いているのだけれど、「喧嘩」というのはそれ文字のごとく、賑やかで華やかじゃなきゃいけないのだそうだ。火事と喧嘩は江戸の華、というとおり、喧嘩は派手にパッーーとやるものが本来なのだとか。
 そういう意味で、いい「喧嘩」だった。陰湿な、単なる暴力沙汰の「ケンカ」じゃない。芸者の意気地がぶつかった、華やかで凄まじいぶつかり合いだった。

 私は歌舞伎や日本舞踊という世界が好きで、昔から首を突っ込んではのぞいてきた。斯界には元芸者さんがたくさんいらっしゃる。役者の奥さん、日本舞踊家、家元夫人などなど。そういった方々、それも現在70代以上の方々には、ある共通した「匂い」がある。いかにも廓育ちな人々特有のもの。華やかで粋、というだけでない、表裏一体となる……黒い、強い、因業な部分。
 そういうものが、左幸子南田洋子の取っ組み合いからは感じられるのだ。
 小さい頃に売られ、辛酸をなめて育ってきた女独得の「後に引けない勝気」というものが、ふたりからは漂っていた。

 そういう名女優だったんである。


 ご冥福をお祈りします。


○記録 東京新聞HPより
南田洋子さんを悼む 江戸っ子の明るさとプロ根性
2009年10月22日 朝刊

 江戸時代の端唄に「芝に生まれ、神田で育ち…」とある通り、芝は江戸っ子のふるさとともいえる地である。二十一日亡くなった南田洋子さん(享年76)は当時の芝区三田で、炭とコメの販売を手広く手がける裕福な商家に生まれた。両親ともチャキチャキの江戸っ子。「父は粋とか洒脱(しゃだつ)を絵に描いたような人だった」と評している。南田さんの自由奔放な明るさは、両親の血を確かに受け継いだ証しであり、幼いころから近くの寄席に“木戸御免”で通った。

 文化学院在学中は歌舞伎座の三階席に通い詰め、その姿に目を留めた支配人からアルバイトを勧められた。新派の名優、初代・水谷八重子さんの付き人。大映ニューフェースに合格するまでの一年間務めた。

 ある日、鏡の前で化粧をしている水谷さんの後ろを通りすぎると呼び止められた。「洋子ちゃん、鏡に向かっているときに、後ろでそういう歩き方をしないでちょうだい。あなたの姿が鏡に映ると、気が散ってしまうでしょう」。舞台化粧にも全身全霊で立ち向かう姿に感動を覚えた。「芸をお客さまにお見せして、同時に夢を与えることが役者の命であることを、先生からは教わりました」と述懐している。南田さんの女優魂の原点には、水谷さんとの出会いがあった。

 南田さんは「女優であることに感謝していた」とも胸中を明かしている。十四年間に及ぶ義父の俳優・沢村国太郎さん(1974年死去)の介護時代を振り返った際のことで、「つらいと思うときは、これも勉強、いつか役作りにプラスになると自分に言い聞かせて。介護の後、まったく違った世界に没入すると、現実を忘れさせ、新しい力を与えてくれました」と語った。

 女優として多方面で活躍した南田さんは、本名「かとうようこ」をペンネームにして連続ドラマの脚本も書いている。一九八七年にTBSで放送された「奇数家族」。どの家族も、みんなどこかが欠け、それと闘いながら生活している。しかったりしかられたり、いがみ合うこともある。「でも、いつか肩を寄せ合っているのも人間同士。ここにこそ人間の素晴らしさがあるのではないか」との思いを込めた作品だった。

 それは、長門裕之との「おしどり夫婦」の歩みを投影したものだったのかもしれない。

 長門がリーダーとなって設立した人間プロダクションが映画製作で多額の借金を背負い込んだ際には、自身が所有していた土地や株を売り払い、夫を支えた。「長門は日本映画のパイオニア牧野省三)の孫として生まれ、ある種の使命感をもっていたのだから、たとえ赤字になっても、やるだけのことはやってよかった」と語っている。一方で、義父の介護時代、ストレスから当たり散らし、挑発に乗った長門から平手打ちを食ったこともあった。耳の鼓膜が破れた。後に長門は「あの手の感触はいつまでも僕の手のひらに残っている。もう二度と洋子を殴ったりしないよ」と、しみじみ語ったという。

 長門が過去の女性遍歴などを赤裸々に語った内容が、「事前チェック」という約束をほごにされて出版され、各方面に大きな波紋を広げた際は、自ら収拾するよう妻として長門を突き放す強い一面も見せた南田さん。長門との関係については「夫婦で役者をしていて、本当によかったとしみじみ思う。相手の気持ちになって生活もできるし、仕事の理解もできる」と語った。そして、続けた言葉が今も強く印象に残っている。

 「私たちは、お互いがお互いを映す鏡なんですよ」 (安田信博)


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