小林桂樹さん、死去。

 小林桂樹さんが亡くなられた。

 私はこのかたの相貌が好きだった。なんだか変な表現ですが……「ありがたい」という気持ちに自然なるんですね、拝見してるだけで。うまくいえんのですが、「あ、はい、すいません、がんばります」と、観るたびに自然と謙虚な気持ちになってしまうんだなあ。もう思いっきり勝手にこちらがそう感じてるだけなんですが。「あんな立派なひとがいるんだからこっちも頑張らねば」と思っちゃうんですね。そんな殊勝な気持ちに小林さんを観てはなるものの、成果はまったく出ていないのだけれど。

 やっぱりうまくこの気持ちを書けんなあ。


 親戚の伯父に少し雰囲気が似ている、というのもある。このひとがまあ立派で、八十余年の人生で道に外れたことなど殆どしてないだろう、と思わせる伯父なのだ。うち母は鼻っぱしが強いほうで、随分娘時代はワガママだったそうなんだが、両親には口ごたえしてもこの伯父には頭が上がらなかったという。だからどうしたって話だが、小林さんのご容貌は我が血脈には頭の上がらないタイプの雰囲気があるのかもしれない。

 なにしろ芸歴の長い方で、デビューは昭和17年、19歳のとき。
 東宝を代表する俳優、と長らく思っていたが、最初は日活入社なのですね。その後大映にうつり、東宝は昭和26年の成瀬巳喜男監督作『めし』が初出演。私は勝手に東宝育ち、戦後デビューかとずっと思い込んでいた。
 成瀬作品、森繁とのコンビをはじめ、そのフィルモグラフィを見ると多士済々な監督に重用されたことが一目瞭然。演技力と共に、お人柄なんだろうな、と思う。そして牟田刑事官のシリーズなど、テレビドラマでも出てると必ず観てしまった。

 亡くなられた次の日に『役者六十年』(中日新聞社)を読み返す。訃報を聞いた当日に少し読んだが、何だかたまらなくて、やめた。

 軍隊にとられたときの思いを、

「今の若者なんだから、しょうがない。決して自分だけじゃない」

 そう、厳粛に受け止めるしかなかった、と語られている。そういう思いに至るまでの拘泥はもちろんあったろうと思う。抗うでも、悟るでもない。「しょうがない」というのが強く心に残る。
 ちょうどたまたま同時期に、吉村公三郎監督の自伝を読んでいた。そのなかで監督は、召集された思いを「一応やりたいことはやってきた。もういいだろう」と表わされていらした。この言葉。そして小林さんの「しょうがない」という言葉。私は、軽いショックを受けていた。
 痩せ我慢も、諦念もあったろう。けれどこれは、逃げずに、正直に、濃く生きてきた人間の吐きえるセリフだと思う。そう、セリフだ。真実だけからの思いではないかもしれないが、この「セリフ」に負けないだけの人生を歩んでいればこそ、回顧録にそういうことを書いても、負けない。そこに、私は強く打たれた。
(ちなみに吉村監督は1911年生まれ、小林さんは1923年生まれ)

「(性格は)さっぱりしたタイプですが、とても美しかった。撮影所の人たちは毎日、原さんに会っているのに、それでも振り返って見ていました。別に着飾っているわけじゃなく、化粧もしていないんですよ」

 いうまでもなく原節子に対する思い出。小林さんが「とても美しかった」と感じたとき、どんな表情をしていたのか、そこがすごく気にかかる。ちょっとは……ポケーッとした顔だったのだろうか。鼻の下は少しでも伸びていただろうか。リアルに素になっている表情を想像すると、小林さんには悪いけれど、笑ってしまう。そして原さんを美人と思いつつも、撮影所の面々のリアクションを観察してしまうところも、らしいなあ、なんて思ってしまう。

 書き抜きたいところは他にもいっぱいある。

 きりがない。何か追悼でDVDを観よう。ご冥福をお祈りいたします。