『エゴイスト』浅田マコト

エゴイスト

エゴイスト

 行間から思いが漂う文章は多々あるが、字間から思いが染み出てくる小説は多くはない。この小説を読み終えて真っ先に感じたのは、そこだ。
 作者の思いのたけが豊かに過ぎて、苦しい。
 作者が抱えている「ドラマ」の内容に対する苦しさでもあり、感情をどう文章化・劇化させるかという懊悩の「跡」を感じさせるものでもある。その両方のストラグルを非常に感じさせる本だった。作者はこれがデビュー作。
 主人公は、愛を期待していない人間だ。愛というものの美しさも素晴らしさも理解しているのに、それが自分には一切の享受を許されないものだとどこかで決定的に思っている。この主人公に、筆者がクローズアップしていく。
 

 主人公の男はゲイで、少年時代がプロローグとなる。ここが正直……駆け足に過ぎた気もしなくもないが、主人公がこの時代に植えつけられた「人間としての物事のみかた」があらわされる。
 愛を何よりも理解したあなたは愛に一番遠い存在だった、なんて文句があったような気がしたけれど、そういった主人公の心の荒涼がモノクロの映画のように映し出される。肌に触れてくるような冷感がある。
 そして長じて社会人となり、ある人間と出会う。
 このふたりの関係をひとことでいうのは大変に難しい。間違いなく「恋」には落ちているのだけれど、そのどちらもが互いを「恋人です」と言い切れない、遠慮している、そういうことを拒絶している、そう思うことは相手に失礼である、申し訳ない、そんなことを認めたらダメになってしまうような……すべての表現が、違う。
 なぜそうなるのかは実際に読んで頂くしかない。ここは非常に整然と書き進められているが、そこを忖度しながら読むことは読書のよろこびでもあるだろう。
 眼目は、主人公の非常に都会的かつ理性的な、そして同時にものすごく不器用なこの慕情の関係の進め方だ。ここが、あまりにも切ない。
 幸せな感情の表現や楽しいときの描写が出てくるたび、プロローグが想起させられるようなつくりになっている。そして突然のその関係の終焉。
 主人公が「自分は愛を期待してもいい存在なのかもしれない」ということを思え始めていたとき(私には「リハビリ」に思えてならなかった。言葉を知らないひとが言葉を習得していくかのようでもあり)、突然にその彼は「いなくなる」。いなくなるのだ。訪れる、無。そこから。

 主人公は男の母親とその距離を近くしていく。ここからだ。

「愛というものは与えるものであって、見返りを求めるものではない」といったテーゼは強く信じられていることだと思う。この主人公は自分自身が愛を獲得するために、人に愛を与えている。
 しかしそれは悪いことなのだろうか。愛されているという感情を得たいために優しく誠実に相手に接する。それは、いけないことなのだろうか。エゴイズムなのだろうか。

 私はこの主人公に対してそういう嫌悪を持たなかった。なぜなら、この主人公は愛した相手に対してあまりにも遠い「心の距離」があるからだ。その遠さが切実に感じられて、哀しいのだ。ゆえに嫌悪など感じられない。
 主人公はその距離からにゅうっと異様なまでに長く手を伸ばす「能力」を持ってしまっている。そして、その能力と距離が心地よいのだ。さらに「彼」はその距離を「至近」に感じている!

 この本のタイトルはこわい。愛というものの「距離」をどう思うのか。近いのか、遠いのか。彼を「遠い」と思う私が、よりエゴイストなのかもしれない。