中村雀右衛門さん、死去。


 役者、監督、歌手、またはスポーツ選手や作家…幅広い意味で「芸能」というものに携わる誰かに入れ込んだことのある方ならば、そのひとが例え活動を辞めたとて、「お元気ならば、生きていてくれさえすれば、それでいい」――そういうような感情を理解し得るのじゃないかと思う。

 私にとって中村雀右衛門というひとは、そういう存在だった。


 芸とは何か。芸術とは何か。
 言葉にすると一冊の本でも全容を述べることは難しいようなこれ「芸」というものを、瞬時に体現し、舞台というものの凄さを伝え得るパフォーマーの数少ないひとりだった。それはイコール「歌舞伎とは何か」というものの答えのひとつでもあった。そういう存在だったと思う。

「芸の神髄」、なんてオーバーな言葉が冗談にならないひとだった。そういう大きな言霊に負けない芸格のある女形だった。
 それは、歌舞伎という伝統芸能が脈々と連なり伝えられてくるうちに拵えられた「総合芸術」としての骨子の大きさ堅牢さ――その中にあるエッセンスをしっかりと身に髄に叩き込まれ、体得し、自由自在にそれらを表現の要として用いることができたからだと思う。自分自身の芸、魅力だけを追求し、自分の世界だけに終始した人ではない素晴らしさ、強さがあった。

 立役をたて、自分は引き、若きをかばい、見守り、子を想い、見せるところは魅せる。「おんながた」としての無限の面体を習得し、そのいずれをもきっちりと「亰屋らしく」表現できた稀なひとだったと思う。
 娘よし、妻よし、芸者よし、傾城よし、母よし、片はずしよし…「ニン」の豊富さでいうと大成駒より上じゃないだろうか。
 娘ならば『妹背山』。あんなに「ああ、かわいそう…」と哀感誘うお三輪は絶後だと思う。妻ならば『吃又』のおとく。切々と独白する「指も十本…」のくだりは「また『吃又』か」と思いつつも見るたび涙が出た。


 踊りは名人なんてもんじゃなかった。
 かつて、とあるお弟子さんから「うちの旦那はご勘祖(二世)にみっちり習ったから踊り上手なんですよ。(藤間)紫さんと一緒によくお稽古したそうですよ」と聞いたが、本当に歌舞伎界で女形としてトップの踊り手だったと思う。

 役者というのは「どのご流儀の踊りでも踊れなくてはならない」というのを金科玉条にしているけれど、実際は完全に自分流で勝手に踊ってしまうひとが多い中、雀右衛門さんの舞踊というのは先の教えが納得できるきっちりと見事なものだった。
 定評のあった中村富十郎さんとの『二人椀久』を観ておくことが出来たのは幸せだったというほかない。日本舞踊が持つエキサイティングな幻想性というもの、もう日舞にしかないダンスの魅力が舞台に炸裂していて、ああ…興奮したもんなあ。これは録画でも多分NHKに残ってるから追悼で流れないかな。「日舞って面白いな!」と思ってくれるひとがきっと増えると思う。


 思い出話を書いていたら、きりがない。
 最後の舞台を観られたのは…今になって思えば、よかったと思う。
2010年1月19日のブログを参照してください)


 芝翫さんが亡くなられて、そして雀右衛門さんが亡くなった。私はこのふたりがきっかけで歌舞伎ファンになって、のめりこんだんだよなあ。
 大学時代という人生の季節に歌舞伎に傾倒できたのは、本当に、本当に幸せなことだった。



 雀右衛門さん。

 時間が最も豊かにつかえる大学時代、あなたが観たくて、歌舞伎の桟敷に通いました。
 あなたは私のささやかで矮小な人生を本当に豊かに、美しく彩ってくれました。今はたまに1階席で舞台を観ることも出来るけれど、あの時代に桟敷から観たあなたの姿よりも歌舞伎が大きく見えることは少ないように思います。役者への熱狂というズームが心の中であまり作用しなくなりました。でも、そういう機能が心の中にあることを教えてくれて、ありがとう。でもあなたの『京鹿子娘道成寺』を観られなかったのは、痛恨というほかありません。悲しいです。

 そういう様々な想いがもう、湧いて湧いて仕方ない。一度だけ、とある舞踊家さんに連れられて楽屋にお邪魔できて、今になって思えば、よかった。想像よりもがっしりと大きな背中だった。それが舞台では小さく見え、なのに抜いた襟から濃厚な色香が湧き出でていたことに、驚いた。まだ私は20歳ぐらいだった。

 ああ、とめどない…。

 心から、ご冥福をお祈りいたします。


 白央篤司