俳句とはどんなものか (角川ソフィア文庫)

俳句とはどんなものか (角川ソフィア文庫)

 高浜虚子の『俳句とはどんなものか』(角川ソフィア文庫)を読んだ。「ツカミ」がすごくいい本。「朝顔鶴瓶とられて貰い水」の句を人生で初めて触れた句であると紹介し、それの連想でとある人が「朝顔の蕾は坊のチンチかな」と詠んだ事に怒りを感じた…というのに笑ってしまった。高浜虚子自身は真面目に書いてるんだろうが、こんなこと取り上げるとは! なんだか急に身近に思えてくる。
 
 高浜虚子ってのはこの頃、かなりの文化人スターだったと聞く(ドキュメントではないが松本清張の短編『菊枕』にその辺が詳しい)。それこそ「今をときめく」という形容がぴったりくるような。「俳諧文化をやさしく解説」するそのスタイルに、その理由の一端を見た思い。ちなみにこの本は『ホトトギス』に半年連載されたエッセイものをまとめたもの。

 季重なりはモーマンタイ、「とるに足らぬ」問題とある。季語のWづかいっていけないことだと思い込んでいた。勿論、「春の月」とか詠んでるのに長閑だ氷解だのを入れるのは忌むこと、とあるが。
 この本、すごーく薄いのもいいが、なにしろ読みやすい。虚子センセイが古句をたくさん解説してくれるのがいずれも分かりやすく、ありがたい。芭蕉の「紅梅や 見ぬ恋つくる 玉簾」なんてどういう意味か分からなかったが、「はぁー…こんな情景が分かる人には分かるもんなのね…」と感心。

○『純と愛
 なんだかんだ、飛び飛びで見てしまっている。この日、武田鉄矢演ずる父親があっけなく死去。遺影がとびっきりにウザい笑顔でそれはそれは素晴らしかった。どうやって収束をつけるのか、そこにしかもう興味はないが変な吸引力があるのは確か。


○一日一句

 「削る」というセンスを少しでもモノにしたくて齧りだした俳句だけれど、いろんな本を読みだして、季語の豊かさにまず圧倒されている。
「こんな微細なことにまで季節を感じてきたんだなあ…」ともう見上げる思い。。。そういう感動のいちいちを言葉に昇華してきた日本人の年月の長さ、苦闘と洗練に感じ入って、茫然。
 まずここをひとつでも多く「識る」ことを第一目標にしたい。

 というわけで…歳時記から「冴返る」寒の戻りのことをいうそうなんですね。

待ちきれぬ コートは春色 冴返る

 春色の 服ちらほらと 冴返る