『エリソ・ヴィルサラーゼ リサイタル』

 3日、すみだトリフォニーホール、大ホールにて。

 まずもう、「行って、良かった……」です。ホントに。久々だなあ、こういう充足感。
 クラシック・ピアノにおける古典派、そしてロマン派両方の真髄を感じさせてくれる、素晴らしいリサイタルだったと思う。
 エリソ・ヴィルサラーゼ
 グルジア人のピアニストで、「ベレゾフスキーの先生」ということで知り、ショパン・リサイタルのアルバムで大好きになったんだよなあ。
 彼女の弾くホ短調ノクターンの音、なんともやるせない音でね。幽愁ってのはこういう情感だろうか、なんて思ったり。
 ざっとプログラムの感想をつけておこうと思います。

1曲目 モーツァルト ドゥゼードの「ジュリ」の「リゾンは眠った」による9つの変奏曲 ハ長調 K.264
 なんて豊かな音色だろう!
 モーツァルトらしい明朗で光明を思わせる音ながら、ほんのちょっとビターなこの感じがいかにもヴィルサラーゼというか。何よりしなやかさに惹かれる。
 古典派ものというと変にパサついた弾き方を遵守する人もあるけど、音の響かせ方が素晴らしくて。つややかでなんだなあ。手首の「呼吸」の自由闊達さがそのニュアンスを生んでいるんだと思う。

 この曲、初めて知りました。しかし今は知らない曲の予習がいろんなサイトのおかげで本当に楽ですね。
 (^д^;)
 検索するのも簡単だし。ケッヘルさんに、感謝。


2曲目 ブラームス ピアノ・ソナタ第1番

 ブラームス独特の…なんていうんだろう、決して「取り乱さない激情」というのか、シューマンショパンが五線譜の上で実に自由に「裸になる」ところを、ブラームスは同様のパッションと情愛を持ちながらも、決してそこを完全には露わにしない感じがある。
 ゆえにパッと聞いて好きになる人は多くないと思うんだけど、だんだんブラームスの音楽、ようやくというか、私も面白く思えてきた。すごく味気ない言葉でいうと、「経年変化」といおうか(笑)。
 ヴィルサラーゼの音楽も、どこか共通したものがあるような。若い頃だったら彼女の演奏、ここまで好きにならなかったかもしれない。
 いきなり話は飛ぶようですが、「しらす」や「お豆腐」が好きになってきたら、聴きたいと思う音楽も随分と変わってきました。ブラームスのシンフォニーや間奏曲など、今年はいろいろと聴いてみたい。

 このソナタに必要とされる構成力とテンションの持続力っていうのは、ピアノ曲の中でも屈指のものなんでしょうね。きちんと音楽的起伏を作って聴かせるのは大変なのだろうなあ。さすがの構築力なのだけれど、フィナーレはもう少しだけ私は燃焼感をもって聴かせてほしかった。
 しかし第1楽章の見事さ、これは忘れがたい。
 正直、私はこの曲をここまで面白いと思ったこと、今までなかったな。今回はじめて、音楽が立体的に説得力をもって聴こえてきた。


 ここで休憩。
 彼女のCDが飛ぶように売れていた。あっという間に完売になってしまって驚く(後で知ったことだけれど、エリソのアルバムは現在かなり入手困難なのだそう)。
 ピアニストの卵だろうか、音大生っぽい若い人もロビーにはたくさん。彼らはどんなふうにエリソの音楽を聴いたのだろう。


 3曲目 ハイドン アンダンテと変奏曲 ヘ短調
 これ、本当にいい曲……好きなんだ。
 もの憂げな基本フレーズのあの美感と哀感、一度聴いたら忘れられないと思う。
 エリソが響かせる寂しい曲調の何と身に染むことか。
 シンプルな和音が豊かに彩られて会場のすみずみに響き渡る。そのたびに、聴衆の集中力が高まっていく。私たちも一体となっていく。
 ぺダリング技術の極致みたいなそのテクニックを堪能した。
 この曲、他の人で聴いたらこんなにも「良い曲」と思わないだろう。そう思う。


 4曲目 シューマン 交響的練習曲

 序盤で響かせた、あの悲しい音――――!
 ドラマティックに美しい叫びで、その瞬間、客席はぎゅうっとひとつになったと思う。一瞬の静寂。こういう瞬間を体験できるのはいいもんですね。ホールという空間が生み出す幸福な一瞬だ。
 ヴィルサラーゼは実に整然とシューマンのこの曲を弾き進めていった。私はもうちょっとシューマンのアブノーマルな感じを強く演出したやり方が好きだけれど、こういうのもアリだなあと思ったり。若い頃の『謝肉祭』などを聴くと即興感も溢れているので、体調もあるだろうし、彼女が到達した結論なのかもしれない。
 しかし強音に風格とボリュームがあるのに決して音が割れず濁らず、ピアノを歌わせ、響かせるこの能力。これこそロシアン・ピアニズムの醍醐味なのかな、と思ったり。


 今回、われら聴衆も実に優秀だったと思う(笑)。
 彼女の音楽に真摯に接し、「聴きたい!」と気持ちが、総じてみな高かったというか。またそれをさらに高めるような彼女の好演奏。それがお互い比例しあってゆくような、実にしあわせな音楽時間が生まれていたと思う。


 アンコールはなんと4曲!
 まずはシューマンの『森の情景』から「予言の鳥」。
 この諧謔味あふれる曲の料理の仕方のうまかったこと! 聞き惚れた。
 聴衆、唸ってたもの。すごいなあ。こんな面白い曲だって思ったことなかった。だからやっぱりホールに行くのって大事だねえ…。街に出よう。


 そして大好きなシューマン×リストの『献呈』!
 嬉しかったなあ…ホント、大好きなんだこの曲。ここに来て分かりやすく華麗なヴィルトゥオジティ溢れる曲で、聴衆も一気に昂揚。いやー…美しい「うたいかた」だった。音楽に泣かされたのは久しぶり。こういう涙は本当に気持ちがいい。

 そしてショパンのワルツ9番。こういう曲にプロの凄味ってのは出ますね…技術的には小学生でも弾くような曲だが、本当に老舗が練り上げて練磨してきた音楽芸術を聴かせてもらってるという感じで…ははは、感激しちゃいました。涙が出ましたよ。
 リストの『超絶技巧練習曲』第9番をブゾーニが「今はもう黄ばんでしまった恋文の束のよう」と評したそうだけど、なんかそんな美しい思い出の中の慕情…といったような情感に満ちていて、美しい演奏でした。
 のんべんだらりと甘く弾いてしまいがちな曲でもあるけれど、実に見事な大人の表現だったなあ。


 最後に、ショパンの華麗なる大円舞曲。エリソ、この曲アンコールに弾くの好きみたいですね。所々の「あしらい」見事さが印象的。普通なら流してしまうようなちょっとしたフレーズの丁寧で典雅な歌い方、まさに「名教授」という感じ。聴きなおしたい。
 スタンディング・オベーションで、拍手はなかなか鳴りやまなかった。
 うーん、興奮しましたよ。いいリサイタルだった。久しぶりにホールから去りがたいあの感じを覚えました。
 ただ体力的にロマン派の大曲はちょっともうツラいかな…と思わされる部分もあったんですけれどもね。でも、やっぱり現代屈指の名人だと思う。
 また聴きたい、すぐにでも。
 エリソがいつまでも元気で、近いうちに再訪してくれますように。