八月納涼大歌舞伎・第二部『髪結新三』『かさね』
久しぶりに、歌舞伎を拝見してきました。
今日はその感想をつけておきたいと思います。
○『髪結新三』
ひとことで感想を言うと……「THE 地味」。
いえ、なんというかね…「みんな一生懸命だなあ」「芸に真面目で真摯だなあ」そういう感想が浮かんでくるんです、真っ先に。
でも舞台を思い返してみて、そういう点がいの一番にきてしまうというのは…非常にまずいことじゃあないだろうか。
「一生懸命」だけでは舞台にかける意味がないんだもの。その「役」が板に乗ってなければ。そのひとの頑張りや苦労がまず思い浮かぶ時点で、その「もの」がそこにはない。
三津五郎さん。
彼の演じる新三とその「体」がマッチしていない。彼がイメージしているものと、その肉体がそぐわない。もっと腿から脛がすっとしたひとがやるべき新三の芝居になってしまっている。
変な例えだけど、映画『極道の妻たち』で、主演の岩下志麻が変に凄んで力んで、結果マンガになっているような違和感が、この新三には漂ってしまっている。
でもそこで失笑が起きないというのは、ひとえにこの方の芸への真摯な打ち込みの結果なんだと思うけれど、観客はそれでは退屈してしまう。乗れない。
大喜利、川端の立ち回りの前で多くの人が幕だと思って客席を離れてしまった。残酷なようだけれど、「もういいよ」というご見物の無言の反応だったと思う。
もっと自分だけの、大和屋オリジナルの新三をこしらえてほしい。
たとえば。
もし、新三を三船敏郎が演じたとしたら?
なんとなく、従来の新三イメージでマッチすると思う。それがもし、森繁がやったとしたら? 多分、独特のニュータイプを彼は創るはず。スッとしたいなせな男は自分のニンではない。ならば…と考えて練って、新しいところで勝負するだろう。
「歌舞伎じゃそうはいかないよ」
分かる。
でも、三津五郎さんが新三を演じるならば、そうするより他ないと思う。そして、あのひとはそれが出来るひとだと思うし。
あとは、ちょっと細かい感想を列記。
■一幕目
中村芝のぶの安定感。技巧、感情の相乗が素晴らしい。誰か幹部さん、このひとを芸養子にしてくださいよ。幹部で当然のひとだ。そして要らない幹部が多すぎる。
そして一幕目におけるお熊の大事さ、これほど痛感させられるとは。子の役こそ芝のぶで観たかったな。児太郎さん、華はなきにしもなんだけれども。化けるかは未知数。
■新三雑感
私は新三って男が昔からよく分からない。
誘拐、恐喝、傷害というような大それたこともいとわず、でも変に小心なところも。しかし日常は髪結いもきちんとこなす。きちんと若い頃に髪結いの修業してたひとなんだろうね。そういう真っ当な部分もありつつ、変にサディスティックで侠客気取りで、でもどっか抜けていて。昔の悪い言葉をつかうけれど、「分裂的」なんだよね。そういう点が中村屋によく似合っていた。難しい役だと思う。
■坂東彌十郎の家主
おみごとのひとこと。なんだけれども、どーーーーしても天王寺屋と比べてしまう。家主はあの場で新三の演技をリードしなければならない。新三をよくするも凡とするも、家主次第。でもまた何度でも彼の家主を観てみたい。もっともっと良くなるはず。彼の熊谷なんて観てみたいなあ。亀蔵の女房はミスキャスト。寸法が悪すぎる。オモシロきゃいいってもんじゃない。
■最大の不満
扇雀さんの忠七は役にハマってました。そしてあの橋の場、扇雀さんが新三に傘で打たれて身投げに悩むところ、下座(?)の唄い手があり得ないほどに劣悪だった。私は聞いていて急性ストレスで胃穿孔できるかと思った。昨日今日唄を始めたってあれよりはマシだと思う。受付で唄い手の名前聞いたら「分かりません」と。なにそれ。
○清元舞踊『かさね』
この演目は、清元が命。幕開けですべてが決まる。
清元連中の台があらわになった瞬間から、大いなる浄瑠璃の呪怨と因果の世界に誘い込めるかどうかがポイント。
哀しいかな、三味線が決定的に弱い、音に緊張感がない! だkら空間が張りつめない。そこでただならぬテンションを提示して語りが世界に誘い込まなければ……。まったくダメ。
そして主演二人も…簡単にいうと「20日過ぎぐらいが見頃」という出来。手さぐりだった。かなしい。
福助さん最初は良かった。
一途で品のある感じで期待したけれど、「入黒子…」あたりからくだけすぎる。このひとはなんでもそう。
かさねと与右衛門、「何してるのか分からないけど…なんとも只ならぬ感じ」というのが伝われば、見物ビギナーも絶対に引き込まれるはず。しかし、どうにもならなかった。
また観客も、うるさかった。「ああきれいだ」「誰?」「福助よお」「男は?」「橋之助、弟なのよ」もうダダ漏れ。家でテレビ観てるのと同じ感覚なんだもの。二人も集中できなかったと思う。その点は同情する。
そして客席に、笑いが起こった。
かさねが足を悪くする振りのところから。因縁云々が分からないとかそういうのではなく、単に動きが滑稽に見えて、喜んだのだと思う。
それほどに二人の踊りは怨念や妄執といったものからは程遠かったし、またそれは半分以上、浄瑠璃のせいだと思う。
この踊りは「語りで観るもの」なんだもの。
踊りに集中すればするほど、清元詞章が耳に胸に聴こえてくる……というのが本理想だ。それが達成できたとき、昔の言葉、音楽が、意味を伴って心に沁み込んでくるあの感動! そういうことを体験したとき、人はそのとりこになる。歌舞伎のとりこが増える。私もかつてそれを体験して虜になったひとりだ。
そういう経験を、させてほしい。
うーん……万事が手順、段取りといった出来なので、細々不満を書いても仕方ない。
しかし一番嫌だったのは、引っ込みの与右衛門を引き戻すかさねの手。演じすぎ。オーバーで、これも笑いを呼んでいた。あれは立役を見せるところでかさねが目立つところではないと私は思う。
最後の「おそろし」の弱さ、貧弱さ! あそこで総毛だたせて幕にならなければ。志寿太夫を聴いてほしい。
以上、第二部の感想でした。