「牽引力」のある女優、松たか子
『ジェーン・エア』
(9月17日 夜の部)
本作を、松たか子独演のひとり芝居ミュージカル『ジェーン・エア』として観たい。大上段にいわせてもらえば、やらせてみたい。
それほどに、松たか子が素晴らしかった!
なんといってもこのひとは、舞台人として最も必要な「牽引力」がある。演技者として感情を大きく表現するスケール、そしてそれを「歌にのせる」ということが出来る人だ。
その歌! 激しい感情の高ぶりが言葉と交わって、心の声となって響いてくる。
たぎるような思いを、ただ力任せにセリフにぶつけることは素人でも出来る。
ときに小さな声でひとこと、「いやです」といって全霊から拒否しているような思いを表現したり、「すきです」という囁きが絶叫のような思いとなって観客の胸に届くような芝居をしてこそ、役者であり、演技者なのである。
そういうことを、このひとは出来ると思う。彼女がソロで歌ういくつかのアリア(こんな言い方しないだろうけど)は、「ショック」だった。撃たれるような思いを舞台で感じたのは久しぶり。
私は松たか子なら、ほかのすべてはいらないと思う。あの表現力を持ってして、ひとり芝居をやらせてみたい。ただシンプルにそれが、観たい!
■衣装との幸せな合致
ジェーン・エアという人物像がまた、すーーーーーーーーっごくハマっていたんだよねえ。
彼女、白い襟に黒のワンピースという地味な衣装の着たきり雀なんですね。この衣装がもう、似合ったなんてもんじゃない。確かに地味だけれど、それが返ってジェーン=松たか子のキャラクターを際立たせる。目出たせる。
後半ウェディング・ドレスになるのだけれど、よほどワンピースのほうが松たか子を美しくみせていたことの証明になった。
それは別に彼女を貶めるものではない。着物と一緒でね、友禅が「のる」人は、えてして江戸小紋なんてのは似合わない。それと同じこと。粋(いき)なものがいい人もいれば、こってりとしたものが似合うひともいる。バラと桔梗を較べるようなものだ。
あの黒い衣装は、ジェーンが育ってきた人生の象徴なのだ。小さい頃から抑圧され、自分の好き勝手などは毛頭出来なかった人生。そういった灰色の青春時代を過ごした女が、はじめて人を好きになり、苦しみ、悩む。望んではならないことを望む気持ちが、修道女のような衣装を引き裂くように、高ぶり、抑えられなくなる……。「お前の出自を忘れるな」そう言い聞かせるかのような地味な服に身を包む女が、恋に悩み、思いが歌となる。
そのときの松たか子は、ドラマティックだった。
不思議な女優だ。
ラストシーン、主演者としての大きな格を持って「ジェーン・エア」を表現していたかと思うと、カーテン・コールになった途端ごくフツーの、なんのオーラもない少女(ってなお年でもないが、そー見えたのだ!)になってしまう。
「あら、松さんどこ?」
本当にそんな感じ。
この人は「役」にしか興味がないのだろう。「女優であること」なんてのは、この人にとって大したことではないのかもしれない。
赤ちゃんを抱いて袖に引っ込むんだが、人形の赤ちゃんを、さも自分の子のように見つめて彼女は去った。それが本当に優しい目だった。
○追記
学生時代の友人、ヘレン・バーンズ役の少女が好演。立派な大人の演技だったと思う。
○追記2
ラスト、それまでのキャスト全員が出てくる演出は陳腐の極み。カーテンコールで出てくるんだからさあ、幸せになったジェーン一家に焦点を当てて終るべき。「このほうが感動的じゃない?」という非常に安っぽい馬鹿げた考え方だ。
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