まさに眼福、吉右衛門の梅王丸


 歌舞伎座の裏に、たこやき屋があるんですよ。
『anan』などの出版社、マガジンハウスのちょうど目の前。少し早く歌舞伎座に着いたもんで、辺りをブラブラすれば、このたこやき屋がけっこうな賑わい。

 いかにも近所、といった方々が、家族分だろうか、2、3パックまとめ買いしていた。
 うーーーーーん……分かるっ。
 2日って、そーいう「舌」になりますね。大晦日周辺に鍋やら海鮮ものときて、元日のおせち料理。手料理やご馳走(市販のおせちとかね)が続いた頃に、近所に「たこやき屋」がやってたら……ちょっと買いにいっちゃう気持ち、分かるなあ。
 私はすでに元旦、「チゲ鍋」か「インドカレー」が食べたくて仕方なかった。普段、ランチタイムなんかに路駐してエスニック系のお弁当を売ってる店、ありますよね。あれ、三が日にこそやるべきじゃないだろうか!? 相当需要あると思うのだけれど。
 さて、今日は昨日の続き。歌舞伎座夜の部、2日の感想を。



【車引】

 ああ……これこそ本当の「大顔合わせ」!
「さよなら歌舞伎座」なーんて銘打ってる割に、「観たい!」と心から思わせてくれる座組(ざぐみ・キャスティングのこと)が少なかった一連の公演。しかし、この『車引』の配役には膝を打ちました。
 梅王丸に中村吉右衛門、松王丸に松本幸四郎、そして中村富十郎の時平、とどめは桜丸に中村芝翫
 桜丸の芝翫はなんと初役だという。今年82歳、はじめてのチャレンジ。
セリフや所作は年齢ゆえ、初日ゆえ、おぼつかない点はそりゃ多々あるけれど、隈取と共に浮かび上がる「古怪味(こかいみ)」というのは、このひとだけのもの。
 幸四郎、押し出しも立派、芸格も立派なのだけれど……私、いちいちこの方のセリフを聞くたび「何々、っていってんだろうな」と毎度「〜だろうな」と類推の語尾をつけずにおれない。舞台よりテレビのほうがハッキリ喋る珍しい舞台俳優。
 吉右衛門。ちょーっと、ノドをやられていたのかな。発声が今ひとつ「穴が小さい」感じがする。このひとのセリフにしては珍しく「頑張ってる感」があって観ていて苦しかったのだけれど……ああ、もう、いーのだそんな些細なことは。
「かたち」の良さ、まんま錦絵。「バーッタリ」とツケ打ちが入った瞬間、「カシャッ」とシャッターが押されたかのように、三次元の立体が二次元の浮世絵になる。そしてそれが、歌舞伎座の舞台全面に大きく拡大されるかのよう。更には、その二次元から放出されるエネルギーの、なんと大きいことか。荒事とはまさにこのこと。
 「気」を、投げつけてこられるかのようだ。役者の「気」がシャワーのように播磨屋から放たれる。これを観られただけで、満足だ。中村雀右衛門の休演で随分と落ち込んだが、もう平気。風邪も治ったような気がする。そうそう、役者というのはこういうものなのだ。「気」を放てる役者は今、歌舞伎座に何人いるだろう。

(私は播磨屋から「気」をもらったけれど、それは今よく使われる「元気をもらった」みたいな意味合いとは全然違う。若い役者が、たとえば精一杯『鏡獅子』のようなものを踊ったとしても若さが溢れてはいるが、「気」を観客に放出できているわけではない。自分で元気に、一生懸命動くことと、『役者が気を放つ』ということは根本的に違う。呼吸をすることと、息を吹きかけることが違うように)


 ああ……いつもながらに、長い。あとは駆け足で。

 松本錦吾の「金棒引 藤内」という役。すみません、この役についてあまり知らないのです。口跡がいいなあ。聞いててスカーッとする発声だなあ。まさに一陣の風。この方、もっとインテリみたいな役も合うと思うのだけれど。
 杉王丸に中村錦之助。ごちそうですね。キリの『源氏店』でも思ったが、「調子」をもうちょっと下げて、やや低い声で己が声のトーンを統一したほうがいいのではないだろうか。低い声でも元気さや若さは表現できるはず。いまのトーンだといつまでたっても割れるような発声になりがちで、姿の良さを殺してしまうと思う。

 勘三郎の『道成寺』ほかは明日にします。

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