新橋演舞場『染模様恩愛御書』

「BL歌舞伎」、なんだそうですよ。
 BL=ボーイズ・ラブ。この言葉の解釈もいろいろでしょうが、うーん……私がこう聞いてパッと出てくるのは「やおい」とかそういう世界ですけどね。一部の少女漫画界を席巻している、キレーな男の子たちの恋愛もの、とでもいえばいいのだろうか。
 まず結論から。
 はい、面白かったです。純粋に「楽しめる」演目だと思う。けれど私が満足したのは、ほぼ若武者とお小姓の恋愛「以外」の部分だった。もし本当に「衆道」がメイン・テーマだとしたら……失敗作だと思う。
 疑問を感じた部分から書いてみよう。


ドラマの中の「美少年」というもの


 おおよそ物語の中の「美少年」という存在は、「運命」でなければいけないと、私は思う。
「美少年」という存在は、他者の一方的かつ盲目的な激情や愛情を捧げられたときのみ、「物語」の中で光り輝く。
 その愛情を受け入れるようであり、受け入れないようであり……「美少年」自らの意思というものを曖昧模糊にすればするほど、ドラマとしてのストーリーは際立っていく。この場合のドラマ、というのは「愛情の奉仕者の人生」、これに他ならない。
「運命」というのは待ち構えるものであり、その上を歩く人間と共に「作用」してはいけないのだ。それでは「運命的恋愛」というもの、「運命的恋愛対象」(これが女だと、俗にファム・ファタールといわれたりする)というものにはなりえないと思う。

 この話、「お互いの一目惚れ」なんですね。
 もーこっからね、私、ついていけなくなってしまった。だってね、ドラマの上でお互いが何の問題もなく好きあってしまったら、観るものは基本的に「引いて」しまうものなんですよ。その「好き度合い」が激しければ激しいほど、そして反対も邪魔もなければ、「はいはい、もー勝手にやってくださいよ」ってなもんでしょう。お金払って「おのろけ」見たい、という人は根本的にいないと私は思う。
(それを公明正大に「一生に一度なんだからさ、許してよー、大目に見てよー」とやれるのが、結婚式なんでしょう。まあ結婚、一生に一度じゃ全然ないけどさ)
 一目惚れ、というのをギリギリまで隠してほしかった。大体、愛之助演じる小姓が「ドタバタ」に過ぎる。男も惚れるような「美少年」は、泰然としていなければならぬ。なんだこの「誰も寝てはならぬ」みたいな口調は(笑)。
 「美少年・美少女」という存在は、自分が、他者との出会いがしらにある種の精神的動揺を与える、ということに慣れているのだ。そして相手が強く関心を持っている対象は、(現在は)自分の相貌に対してのみなのだ、ということを早くから察知する。だから、「彼ら」は甘受するでもなく、拒否するでもなく、結果そういう相手に対して無関心になる。
 相手が自分の容貌に見慣れてきたときに見せるものは何か。
 自分に対する思いの大きさはどれほどなのか。
「美少年および美少女」を手に入れるためには、奉仕者はひとりで「天岩戸」的な経験をしなければならない。そこが、ドラマになる。そういう部分の面白さとリアリティが、この芝居にはない(だから愛之助の役も「美少年」に見えてこない)。これが一番の不満だった。


●ラブシーンの悪趣味な演出にヘキエキ


 美しいお小姓(片岡愛之助)が、若侍に見初められる。もーこれがまオーバーなんだ、言葉は悪いが……ちょっと演出が泥臭いというか、田舎くさいというか。
 だっていまどき「ピンクのスポットライト」ですよ!? なつかしのドリフターズ・カトちゃんの「ちょっとだけよ」とか「額縁ショー」とか思い出してしまいました。額縁ショーさすがに知らないけど。
 ピンクのピンスポに抜かれて見つめ合うふたり。ああ……なんかBGMに佐良直美『世界は二人のために』とか掛かりだしそうなイキオイ(実際は歌入りの筝曲が入るんだが……「ポエム・フォーク」みたいな声と曲調で、まったりと愛を歌われて、私はゲンナリしてしまった)。
 もう……見ていて恥ずかしいったらありゃしない。悪趣味の暴走は止まらない。極致が「床入り」だ。「衆道の契り」なんてキレイなもんじゃない。
 小姓の部屋で密会した二人がスッと奥の間に行くと、またもやピンクスポットが二人を「うしろから」抜くんですね。すると壁がスクリーンになっていて、二人のシルエットが浮かび上がる! さらにちょっと袖に出てきて何をするかと思えば、染五郎が帯を引っぱられてクルクルと回るんだこれが! そしてシルエットに戻り、パッと着物を脱ぐ染五郎。ああなんとそこには「ふんどし」のシルエットがくっきりと。そして抱き合い、口を重ねる二人……。
キワモノ
 私の心にそんな言葉が浮かびました。


●どうして染五郎はこれを引き受けたのだろう


 あのさあ、ふざけたいの? 真面目にやりたいの? どっちなんだーーーーーーッ!?
 私はこういう、笑ってほしいんだか真面目に見せたいんだか、どっちつかずの演出が一番嫌いだ。染五郎、帯を解かれてクルクル回るとこなんか……どーにも「笑い寄り」に見えたもんなあ。笑わせるなら笑わせるで、徹底しろ!
あのですね、私の怒りはこうだ。ここでこのシーンを笑いにするのだとしても、最後の最後で「二人の愛は永遠」みたいなキレイな見せ方をして終るんですね。そういう展開ならば、ここでこんなことをしてはいけない。物語の主軸、求心力としてのカップルの魅力が「下がって」しまう。「笑っていただいて、最後はシンミリしていただいて」という非常に「安い」狙いを感じてしまう。それに大体この二人、好きあうならばもっと障害を強くしなければ、お客はノレないだろう。小姓としてのつとめがあるから恋を受け入れられない、そんなことをすればお手討ち、ということとか、小姓を好いている腰元(市川春猿)がもっと執拗に邪魔をするとか、演出を再考すべきところが様々に浮かんでくるのだけれど。


 しかし、染五郎はなんであの「床入りシーン」に賛同したんだろうなあ。もっとこの友右衛門を、「いい役」に自分でしなきゃダメじゃないか。そしてせめてあのシーンだって、観客に「この男に抱かれてみたいかも」と思わせてこその役者じゃないか。あの美しくも淫靡な『桜姫東文章』、権助が桜姫を犯さんとするシーンを知っている歌舞伎界が、こんなダサい「閨(ねや)」のシーンを見せてくる。
 私は、失望した。

 
 けれどそれを余りある収穫もあったんです。だから「面白い」と思ったのだし。それは明日書きましょうか。


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