新橋演舞場『染模様恩愛御書』その2


 まず、なんといっても中村芝のぶ
 うまいねえ……うまいなあ、嬉しくなっちゃうねえ。観ていて思わず、「ンまいね!」と呟いてしまいました。
 しのぶ、と読むこの女形さん、二役演じて奥方と娘の二態を見せる。これがまあどっちも見事。「ものになる」ってのは、こーいうことを言うんだろうなあ。乱暴ものの夫を持った武家の奥方の悲嘆、娘の無邪気な喜び、どちらもニンにして品があり、いうことなし。
 セリフのうまさは定評ある人ですが、今回はその音楽性と演劇性の見事なバランスに心打たれました。

 歌舞伎のセリフって基本、「音楽」だと思っているんですね。声質、抑揚、タメ(イキ、という言い方もできるか)という3つの要素で聞かせていく。これ、現代的に言い換えるなら音色・ピッチ・ビート、ということだと思う。これらの操り方が、芝のぶは本当にいい。

 そこだけに頼ってしまうと空疎になるが、この女形はそこに演劇性を乗せられる。簡単いえばセリフ術、ということなんだろうが……芝居のことば、というのは、一番恐ろしいのは「説明」になることなのだ。
「あの人は実はこんな悪いことをしていた・でも私は妻だから耐えています・兄はどうしてるだろう(私には兄がいます)」
 こんな風に観客に説明しているように聞こえたら、最低なんですね。でもそういうセリフ、歌舞伎ってやたらに多いんですよ。そこを救うのが先のセリフの音楽性なのだ。
 朗読のそれとも違う、歌のそれとも違う、人間が感じる一種の「快い音調(トーン)」を駆使して、説明的なことを「聴かせて」ゆく。中村芝のぶの発する台詞を耳にしながら、私はそんなことを考えていた。


中村芝のぶ


●一「鬼」当千なる実悪の魅力

 そして市川猿弥! 
 みごとな「実悪」の存在感。歌舞伎って「ただひたすらに悪い人」って出てくるんですよ。「どーしてそんなに根性腐ってるの!?」ってな人。これ、スケールで見せるしかないんですね。
 多分、神話とかの世界でいう「災厄」って存在なんだと思う。触れたが最後、破滅。そんなイキオイで人間をどんどん飲み込んでは破壊していくような、巨大なスケールの「悪」。
 この大きさが実に見事に表現されていた。一国をも転覆させかねない悪者。こんなの中々表現できませんよ。すごいなあ……すごいよ。
 あはは、彼の芝居を思い出していたら、ただ「すごい」しか書けなくなってしまった。
 終盤の大立ち回りなど、完全に主役を喰っていたもの。この「喰い方」にね、品があるんだ。
「俺をみせてやる、主役を喰ってやる!」
 ってな見せ方じゃない。大悪人、という理解がきちんとあって、節度のある目立ち方。久しぶりに迫力充分、気のみなぎったいい立ち回りを拝見した。今回、随分と客席が「冷めて」いたんだが、猿弥が殺され、かつがれて引っ込むところで、自然に「手が出た」もんなあ(拍手が起こること)。 

 奥さんを因縁つけて斬り殺し、嘘で固めて生きのびる。良心の呵責など微塵もなく、また悪事を繰り返す。他人は疑い、裏切るもの。邪魔するものを殺すのは屁でもなく、又異様に強い。そんな男を、余すところなく表現していた。
 この人、ひょっとしたら映画『復讐するは我にあり』の主人公を演じられるかもしれない。監督と共演者が全然いないけれど。

●印象トリヴィアル

 あとはザーッと。
 将軍妻役の上村吉弥がいつもながらに好演。貫禄充分(将軍よりあった)、脇でそっと涙をぬぐうところなど、控えめにして心情がにじむ。
 あ、全然書いてないけれど、主演のふたりも良かったんですよ。「何を急にフォローして」と思われるかもしれないが(笑)。私が疑問だったのはラブシーンの演出だけ。
 染五郎はラスト、大火の中を将軍家ゆかりの品を守るため跳ね回り、なんと「階段落ち」まで披露する。これには、たまげた。まさに獅子奮迅の働きのごとく。
 愛之助はラスト、父の仇をとらせてくださいと将軍に頼む段から抜群にセリフがよくなる。つまり、小姓のときの若い感じを狙った高いトーンが合っていないということだ。何も高い声じゃなくても少年性は出せるはず。こういう考え方は、「胸を作って・整形して・脱毛して」女らしくなろうとしても、結局すごく「ニューハーフ」っぽくなっちゃう人がいるのを考えれば、分かってもらえるんじゃないだろうか。さして作りこんでなくても、実にナチュラルに女っぽい人もいる。こういうところに含まれる「何か」を、芝居に転化させるのが役者の仕事なのだ。


 それから細かいことを列記。
1:和歌のやり取りを夜中外でやるが、あれ随分とまあ夜目のきく人たちですね。何か工夫があって然るべきだと思う。
2:ラストの大立ち回りで最初にトンボを切る役者がうまかった。クッと宙で一瞬止まって軸のある回り方。誰だ?
3:図書と腰元の火弓のやり取り。あんな大風の効果音を入れて、火種を全然気にしないのは変。手をかざすなり最低限の仕草はすべき。
4:今回大道具にけっこうな疑問。大道具というのか、最初のバックの変な星空と赤提灯、安いビヤガーデンのようでいただけない。そして杜若のレースカーテンも到底素敵とはいいがたいものだった。


●怒りのカーテンコール
 

 そうそう、カーテンコール。
 ほんっとうに許せないのは、ここに中村芝のぶが並ばないことだ。殆ど出番のない役者が出てきて、芝のぶが出てこない。
「それが歌舞伎界なんですよ」「序列ですねえ」「梨園では常識」
 くそくらえだ。そんなことは分かりきっている。なにせ、国立劇場の研修生を受ける最初の時点で「出世はないし絶対に主役は出来ない。それでもよければ残れ」といわれる世界なんだもの。
 けれど、あれだけの芝居を出来る大名題が何人いるだろう。
 おかしいものはおかしいと、「思った人」はきちんと声に出すべきだ。こんなに情報を個人が発信できる時代なんだもの。
 あの喝采を受けるべきは、芝のぶもだった。

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