歌舞伎座閉場式
どうなのかなあ。どうなのかなあ?
いきなり興醒めなことを書きますが、正直……ノレなかった。
内容的には感動した点も、あるんだけどね。やっぱり「式」を2回やる、ってのが分からない。「式」ならば一度が本当でしょう(この日は同じ内容を午前・午後と2回上演、というか「式」なんだから開催?)。
「最後の最後にもうひと稼ぎさせてもらいます!」
そうハッキリいってくれれば、純粋に「じゃあ楽しませてもらおうじゃないの」と思えるんだけれどなあ。ちょっと松竹のやり方に疑問を抱かざるを得ない。「式」なんていわなければいいのに。
こんなこというのは野暮と承知の上。でも、あえて問いたい。
「式」って本来、身内でやるものだ。身内が集まって冠婚葬祭、及び学校行事の一環でやるものだ。
「ご贔屓様も身内のようなもの」
そういう考えもわかる。ならば、切符代を取るのはおかしいよ。各々が閉場式に入場する権利を抽選かなんかで得るようにして、それで「ご祝儀」を包む、というやりかたが妥当な筋だと思う。ムチャ言ってるのは分かってるよ。でも「式」と言い張るならば、それが筋だ。
「固いこといいなさんな、最後なんだもの。さよならなんだもの」
そうなんだよねえ。分かっちゃいるんです。でもねえ、「入場料とるからには何か俳優にさせないと」、ってな……おざなりな「におい」を、私はあの場にいて感じてしまった。「稼ぐ」ということと厳かな「式典」というものをハンパにゴッチャにした、あまり気持ちの良くない場であった。
ただ一点、『道成寺』の幕切れ、鐘入りには興奮した。凄いものをみせてもらった。そのことを中心に書き留めておきたい。
松竹会長・大谷信義氏(大谷竹次郎の孫にあたる方らしい)の挨拶からはじまって、すぐに長唄『都風流』。立役勢揃い。菊五郎、吉右衛門、仁左衛門、勘三郎、三津五郎、梅 玉、團十郎、幸四郎。扇で顔を隠した紋付袴の姿でセリ上がり。
こういうもの(あの内容で「踊り」とは私には書けません)に、「あーだ・こーだ」いうのは野暮の骨頂。贔屓役者を眺めて楽しめばいい、それだけのもの。
個人的に心に留まったのが音羽屋のこと。誰かが踊っているとき、あとの全員がうしろの床机に腰掛ている形になる。
こういうときが怖いですね、役者は。
自然、目が行く人、目立つ人というのがすぐに浮き彫りになる。これはやっぱり、音羽屋が一番じゃなかっただろうか。スター性というものはピカイチ。
播磨屋と高麗屋の懐手の仕方がそっくりで、変なところが似るものだなと思う。
『京鹿子娘道成寺』
玉三郎、時蔵、魁春、福助、芝雀による五人道成寺。
道行は福助の登場。
「歌右衛門になろう、なろう」という強い「念」を、今回の福助の踊りとセリフから強く感じた。
それが結果、体と声の不必要な殺し方、不自然な口跡を生んでいるように思われてならない。まだ若い、張りのある声と体が変に殺されている。もったいない。
しかし道行の、「いかにも異形のものが現れました」という情感は現在このひとの専売特許だろう。
途中からスッポンで玉三郎登場。
今回の玉三郎は十歳は若返ったかのように、綺麗だった。きらきらしていた。
福助と玉三郎の連舞が不思議な相乗効果をみせる。一見、解けあわなそうな福助と玉三郎の美質が、「花子・金角銀角」というか、「ニマタノオロチ」的というか、なんというか(笑)。言葉を選ばずにいうと、バケモノ感の融合ってんですかね。「美しい物の怪が迫り来ていますよ!」という迫力タップリ。褒めてます。この踊りが持つ、そういた種類の部分がクローズアップされていた。妖しい歌舞伎舞踊ならではの美が、そこにあった。褒めてるんですってば。
本舞台に入る前に玉三郎またスッポンでセリ下がり。
花のほかには松ばかり、から時蔵。
これが実に丁寧で、「日本舞踊」として、きれいな道成寺だった。昔の襲名のときの『妹背山道行』のビデオを観たことがあるけれど、時蔵というひと、踊り上手なんだよね。よくいわれるように、「ここでみせてやろう!」みたいなある種の「ヤマっ気」は確かに少ない。でも、このパートにはこういう姿勢が実にマッチしていたと思う。
鞠唄になってから、なんと全員の揃い。五人鞠唄! これがですね……なんだか壮観というか、「クローン道成寺」というか(笑)。ちょっと異様ですらあった。もう舞台のどこを観ていいのやら。芝雀と福助がハケて、最後は時蔵、魁春、玉三郎の決まり。玉さん、今後ズーッと「まさか『影の花子』となってオブリガートつけていくのか!?」なーんて思ったり。
花笠は芝雀。
これも丁寧な踊り。ああ、もっと芝雀に大役をドンドンつけてください、松竹様!
そして恋の手習い。待ってました、という感じで玉三郎登場。気合充分の手習いだった。
最初に縮緬の手ぬぐいを口にくわえて決まるところ、ここに面白い感慨を持った。
手の長い玉三郎は当然、長い手ぬぐいを誂えているわけだけれど、この感じが面白い。何かこう、「芸の触手」のように思える。誤解を招く表現だと思うけれど、「アメフラシ」のような美しさがそこにあった。物凄くきれいな、不思議なもの。気持ち悪いとぎりぎりの何か。歌舞伎の寸法で収まりきらない「美」がそこにあった。もう大和屋は何回も踊られている踊りだけど、こんなことを感じたのは初めて。
女の形をしているけれど、これは絶対に日常にはない、人間世界にはない、美の形。軟体で触手のあるようないきものが、舞踊と歌舞伎のエッセンスを養分としてそこに存在しているかのような、不思議な情感。
「ふっつり悋気」からだったと思うが、下手から福助登場。
ここは、贔屓目もあるけれど玉三郎に踊りきっていただきたかったなあ。
山づくしに芝雀と時蔵。これも端正な踊り。『京鹿子娘道成寺』は「娘」である、という根本を思い出させるいい踊りだと思う。
海老反りになってから玉三郎、福助も登場。全員で決まって「ただ頼め」へ。これで魁春。そして白地に引き抜いて玉三郎が登場。着替え早ッ! 驚くヒマなく急テンポで鐘入り。
こっからが凄かった。坊主を蹴散らして鐘の後ろに入るや福助、時蔵、芝雀が現れ、5人で鐘に巻きつくかのごとく決まるそのドラマティック・エモーション!
上手から玉三郎、魁春、時蔵、芝雀、福助。鐘の上にはもちろん二人、その下手脇に台を置いて三人が上下して決まる。
鱗の着物が5人並んでさながら一匹の大蛇のごとく。これは感動的な瞬間だった。すべてを忘れて興奮してしまった。「歌舞伎の底力、見せていただきました」ってな感じ。ああああすごい。各々が全力出し切っているパワーが伝わってきて、まあその放出力がすさまじくて。
(ただ、直前まで玉三郎は魁春に気を遣っているのが見て取れた。それは嫌な感じじゃなくて、全体的な間合いを取るというシンの役者のそれ、という感じ)
もうね、私、所化になっちゃってましたよ(笑)。拝むような気持ち。ありがたやありがたや。これ、今後また歌舞伎座が壊されないかぎり観れないだろう。こんな大顔合わせの、一種「珍品」の道成寺。ゲスな話だが、これで1万5千円の元は取ったと心から思えた。
口上、そして名題俳優以上が勢揃いの手打ちにて幕。